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第42話 四回目

 三回までなら……大丈夫、でしょう? まだ一回だもの。 「……ミキ」  ずっとずっと言いたかったんです。貴方のことがずっと好きだったと、ずっと言いたかった。 「初恋、だったんです」 「……」  自惚れのひどい奴だと思われるかもしれないけれど、でも、貴方に嫌われてはいない、と思いたい。たくさん、優しくしてくれるから。たくさん楽しそうにしてくれるから。 「ずっと、好きでした」  だから、三回までなら、大丈夫でしょう? 今、二回目だもの。 「抱かれ方を教えてくださいって言ったの、嘘です」 「……」 「先輩に抱いて欲しかったんです」 「……」 「一度でいいから、貴方に」  到底、手など届かないところにいる人だった。画面の向こうにいるアイドルに触れるのと同じくらいとてもじゃないけれど無理な願い事だった。  先輩に抱かれたい。  だなんて。 「だから、三百万で、してもらえるならって」 「お前は……バカなの?」 「!」  バカだと思う。愚かだと思う。ほら、よく言うでしょう? 金で心までは買えないなんて、よくそこらへんにありそうなセリフ。でも、そう、金で貴方の心は買えないもの。それでも、欲しかった。貴方の身体だけでも、欲しかった。 「バカなのは俺か……」 「先輩? 先輩はっ、バカなんかじゃ」 「お前は誰に抱かれたくて、俺に教わってるんだろう」 「ぇ?」 「そう思ってたんだからさ。そう思って」  貴方のことが、欲しかった。 「そのお前が本当に抱かれたいと思ってる誰かを羨ましいと思ってた」 「……」 「それが俺ならいいのにって、思ってた」 「……」  それはまるで。 「先輩」 「俺に抱かれたいって思ってたらいいのにってさ」  まるで、告白のよう。 「せ、先輩に、抱かれたいです!」 「……」 「…………先輩に」 「何、してんだろうな、俺ら」  先輩が笑った。呆れたように笑ってた。  本当に何をしているんだろう。こんな寒い時期に傘もささずにスーツも台無しにして、男二人でさ。 「不器用なガキみたいに」  ずぶ濡れのまま抱き合ってさ。 「先輩……」 「けど」  お互いに好きだったのにすれ違うばかりで。 「好きだよ、ミキ」  愛の告白なんてさ。 「おーい、ミキ、しっかりあったまれよ。風呂ん中のもの適当に使っていいから」 「は、はい」  曇りガラスの向こう側に先輩がいた。 「服、着替えはここに置いておくから」  そう言って、曇りガラスで輪郭がボケている先輩がポンっと服の上に手を置いて、ここだと教えてくれる。 「はいっ」 「そんでスーツはびしょ濡れすぎて脱水もビミョーだからとりあえず玄関に干した」 「お、お手数を……」 「っぷ、あぁ、いいよ」  なんだか、笑ってる。 「そんじゃ、ゆっくり浸かれよ」  なんだか、お母さんみたい。  なんだか……変なの。  もっとさ、もっと、こう、あの告白に、それからずぶ濡れになった雰囲気とか、ほら、そのまま熱いキスとか、つまりそういうのになりそうな流れだと思ったのに。 「は、い……」  なんだか、先輩が、いつもの先輩じゃないみたい。  俺の知ってる先輩は……よくどこかで居眠りをしていた。彼女が途切れることがなくて、カッコよくて優しくて、なんでもこなせて、優秀で人気者だった。いつも誰かに囲まれていて、いつも誰かが先輩に声をかけていた。大袈裟な言い方だと思われそうだけれど、でも、俺にとっては、遥か遠く、手など届かないところにいる星のような人だった。 「……あの……お風呂、ありがとうございました」 「あぁ、あったまった?」 「はい、あの先輩も、お風呂に」 「あぁ」  窓には一面、星が輝いてた。  先輩はスウェットの上下を着てる。ちょっとくたびれてそうな家着。 「……カーテン」  カーテンがないから、電気をつけずにいると窓と空の境目が曖昧で、その頭上いっぱいに空が広がっているようだ。そして、先輩が夜色をした空を見上げてる。 「あぁ、ないんだ」 「……」 「夜は家にいないから」  夜は、いつも誰かを。 「知ってた? 人間ってさ、日光浴びないとダメらしい」 「……」 「けど、夜は仕事だから、その日光が浴びれる時間帯は寝てる。だから寝てても日光浴できるようにってさ……金もなかったし。カーテンなんてものを用意する余裕もなかったし。借金に追われてたのに、窓枠のサイズ測って店に……なんて余裕ないだろ」  夜はいつも自分を買った誰かを抱いてた。 「な、コンビニとかでさ、パン」 「……ぇ?」  カーテンのない窓から伺える先輩の日常を思っていたら、急にパンのことを話されて、戸惑ってしまう。何? パン? って、あのパン? 「なんかパン食べたいって思って、そこに行くんだけど、でも食べたかったパンがどれだかわからない時ってない?」  何か食べたいのだけれど、その何かがわからず、パンの売り場の前で考え込んでしまう。チョコレートクリームのパン? いや、その甘さじゃなくて。じゃあ、アンパン? そういうのでもなくて。それじゃあ、コロッケパン? なんだか違うんだ。それでもないんだ……って。  何が食べたいのかわからないけれど、食べたくて。 「それで、じゃあいいやこれでってパンを買うんだけど、食べるとがっかりする」 「……」 「これじゃなかったなって」  でも何か食べたかったんだ。 「今まで、誰かと付き合うのってそんな感じだった。付き合うとなんか違ってて、欲しかったものじゃなくてさ。がっかりして……だから自業自得なんだと思った。借金の返済にここで働けと、これで稼げと言われた時は」 「……」 「好きでもなんでもない女の子と付き合っては傷つけていただろう俺に似合いのさ、好きでもなんでもない知らない女を抱く仕事」 「……」 「実際、抱けたしね。なんだったら、今まで付き合ってきた彼女たちと大差なかった。変わらない。あ、いや、大差ないけど、金払ってる分、色々させられたけど」  空を見上げてた先輩は俯いて自分の手を見た。そしてその手で「おいで」と俺を手招いた。 「えらいじゃん。ちゃんとあったまって」 「……」  確かめるように頬に触れて、ふわりと貴方が微笑む。 「お前だったんだね」 「……」 「俺の欲しかったもの」 「……」 「お前だったんだ」  頬に触れてくれた手がひどく冷たかった。優しい貴方は雨に濡れて風邪を引いてしまうかもしれないと、俺を心配してくれたけれど、貴方の手こそ氷みたいに冷えている。 「ミキ?」  その冷たい、氷のような手をギュッと握った。  星のように輝く人だと思ってた。けれど、本当の貴方はお母さんみたいに世話を焼いてくれて、ワンルームの小さな部屋で、少しくたびれた家着を着て、空を見上げていた人だった。 「俺でよければいくらでもあげるのに」 「……」 「全部、先輩にあげます」  輝く星でないから、手を伸ばして捕まえた。 「先輩の欲しいだけ、いくらでも」  捕まえてキスをすると唇さえも切なくなるほど冷たかった。 「俺の手は汚い」 「好きです……先輩」  貴方の言葉を遮るように好きだと告げた。これで、三回目。  これで、三つ目の告白。これで……。 「先輩……」  仕舞い……ここからは、きっと違う。 「先輩」  ここからは違う、セックスになる。

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