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第52話 初めてで、最後で――。
今日は午後から企業との打ち合わせがあるんだから、何時までに戻ればいいのか計算しておかないと……あぁ、そうだ、それから、あれも確認してもらって、明後日には――。
「よ! 渡瀬!」
待ち合わせの時間までスマホでスケジュール管理をしていた。駅は今、整備工事の真っ只中であちらこちらが白いトタンで仕切られていて、少し迷路のように入り組んでる。ちょうど一週間前にもここを視察で訪れた時は本当に分からなくて、迷子になってしまった。だって、あの人が右だと、右に曲がるんだと言って聞かないから。
今日も忙しそうに白いトタンの向こう側で工事の騒音がものすごい中、元気で相変わらず明るく、楽しげな大石の声がした。
「よ。大石」
地方に住んでいる彼は、また、出張でこちらに来たらしい。
「久しぶりだな。渡瀬」
「あぁ」
ちょうど一年ぶり。
一年前は大手商社に勤めていた。三百万もの大金をポンと出して買い物ができてしまうくらいの大手商社に勤める高級取り。
「いやぁ、やっぱこっちはわかんないわ。しかも、ここ、超迷路じゃん。さっき人に道聞いちゃったぜ」
「わかりにくいよな。仕事の都合でここが便利で」
「いやいいよ。っていうか、転職したんだって?」
そんなホワイトカラーだった頃もあったっけ。
「あぁ、そうなんだ」
「しかも!」
「……あぁ、そう、なんだ」
今はもうそんな大金使って、ポンと買い物なんてできやしない。高給取りなんてこともない。小さな小さな会社。
本当に小さな会社なんだと笑うと、大石が少し驚いた顔をして、そして、それから、楽しそうで、幸せそうで良かったと、嬉しそうに微笑んでいた。
転職をした。
ちょうど一年前くらい、クリスマス直前の慌ただしい年末のことだった。
「只今帰りました」
吉川は今もあの商社に勤めている。来年、結婚する。連絡はたまに取っていた。向こうの方から連絡をくれることが多い。俺は……。
「ちょっ、社長、どうしてネクタイをしてないんですか」
俺はたまに返信をするくらい。
「…………だって」
「二時から打ち合わせがあるからって言ったのに。また居眠りして」
連絡を取るのを避けてるわけではないけれど、忙しくて。バタバタしているうちに翌日に……が続いてしまって、返信のタイミングが分からなくなる。いつもどおり、そういうのが不得意で下手なまま。
「よく寝る……」
「そういう子は育つんだよ」
「ああ言えばこう言う」
「頭の回転が早いんだ」
転職した先はまだまだ駆け出しのコンサルティング会社。不況の荒波にはすぐにさらわれそうだし、突風にもあっという間に吹き飛ばされてしまいそうな小さな会社。けれど小さい分、町工場とか、まだまだ規模の小さな企業へのコンサルティングを一つ一つ丁寧に行っている。
社長は若手、三十になったばかり。
「ほら、ネクタイしてください」
従業員は一人。
「して、ネクタイ、秘書さん」
そうそう、その従業員は秘書も兼ねてる。社長はどこででも居眠りをしてしまう人だから。体育館倉庫の埃くさいマットだっておかまなしに寄り掛かって居眠りをしてしまうような人。
「もう……」
「おねだり」
「はいはい。わかりました」
俺が選んだ少し明るめの紺色のネクタイを脇にある壁掛けフックから持ってくると満足そうに笑ってる。
素直に上を向いて、首をさらけ出して。
あ、やってしまった。
身じろぐと、少しだけ襟口から赤い痕が見えた。
俺が昨夜つけてしまった爪痕、けっこう上の方だった。
「もっと、こっちだよ。幹泰」
「っ」
腰を引き寄せられ、大きな社長椅子に腰をかける股の間に招かれる。
彼の前職は。
「こんなに近かったら、ネクタイ結べないでしょう?」
男娼。
「だって、お昼ほっぽかれたからさ」
「大石が上京してきたから昼食をしてくるって言ったじゃないですか」
「社長秘書をするにはお前がなんかエロいから」
「あっ……ン」
スラックス越しに撫でられて、昨日の感覚がまだ残るそこがきゅんと悦んだ。
彼は一つ年上で、高校の先輩だった。大手コンサルティング会社で経験を積み、独立しようとしていた矢先、トラブルに遭遇して、そこから男娼へ――。
「ンっ……」
俺は彼の最後の客、だった。
「ん、社長っ」
彼は、俺の初めての人だった。
「ね、ミキ」
ずるいの。こういう時だけ、前の呼び方をするの。
「お前はやっぱりなんか、エロいね」
「あ、ん、そんなことっ」
彼は、俺が初めて恋をした人。
初めてキスをした人。
初めて抱いてくれた人。
「そう、させたの、先輩でしょう?」
全部、貴方が初めて。
「貴方にしか教わってないもの」
セックスも、おねだりの仕方も、誘惑の仕方も、甘い甘い蕩けた声の出し方も。
「ほら、先輩……」
あぁ、それから向かい合わせでネクタイを締めるやり方も、貴方のおかげで覚えた。すごく近くで、キスできそうな距離で首に指先で触れて、シルクの滑らかなネクタイの触り心地を真似た指先で、貴方の顎のラインに触れるの。まるで、柔らかくしなやかな拘束具みたいにネクタイをするりと巻きつけて。
ね? 上手でしょう?
貴方の好みをよく知ってるでしょう?
貴方のことはよく知ってる。いつもいつも見てたから。
「先輩……」
「ミ、」
「はい! ほら! 先輩! 遅れます! キビキビ動いてください!」
「ちょっ! うわぁ!」
従業員兼秘書は多忙なんです。ほら、だから。
「午後もみっちり仕事です」
社長の椅子にのし掛かり、脚の間に膝を大胆について、ネクタイを引っ張るようにキスをした。唇が離れる瞬間、舌でペロリと舐めて。
――けど、なんかお前変わったな。
そう? そう見えた? 大石。
――なんかさ、楽しそうだ。
「ミキ?」
そう見えたのなら、そうなんだろう。楽しくて、嬉しくて、幸せでたまらない。
貴方は俺の初めての人で。
俺は貴方の最後の客で、最後に見つけた、初恋の人だから。
「続き……仕事終わったらしてくださいね」
二人して、深く沈むように、溺れるようにずっと夢中になっている。
「先輩……」
この初恋に――。
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