53 / 74

春旅行編 第1話 匂い

 夏に合宿があった。  うちのバスケ部はマネージャーがいなかったから、一年生がマネージャーの仕事もやっていた。洗濯とか、お茶の用意とか、そういうの。大型のバスで、バスケ部と、それからどこの部だったっけ。でも女子が混ざってたから、陸上部とかだったのかも。宿舎も練習場所も違っていたけれど、二つくらいの運動部が相乗りして、比較的涼しい山地に三泊四日の強化合宿に向かう。  三年生は自由参加だったから、大概の人は来ないんだ。うちは進学校だし、もう夏は受験に向けて夏季講習とかあるから、部活動も大事だけれど、受験はもっと大事で、合宿なんてしてる場合じゃないっていう人も多かった。  三年生は大体来ない。  だから、一度だけ。  一つ上の先輩と一緒に過ごせる合宿はたったの一度。  その日がとても楽しみで、嬉しくて。 「きゃー! 白岡センパーイ!」  けれど、内心、すごく残念だった。  陸上部じゃなくて、サッカーとか野球が一緒だったらよかったのに。  そしたら、こんなに女子いなかったのに……って。先輩はすごくモテるから、女子がいるともう見たくても見る隙間さえないんだ。  昨日、こっちに到着して、練習している間は女子がいないからいいけどさ。練習中に上手に話しかけられるほど器用じゃない。なのに、練習が終わった後は、陸部の女子が、宿、違うはずなのに、顧問の忠告なんて聞かないで、こっちまで遊びに来てるし。  今、珍しく彼女がいないから、今だ! って、女子が、さ……。  だから、俺が「先輩」って話しかける隙間なんて。 「おーい、渡瀬ー! 洗濯物ー!」 「あ、うんっ、ごめん! 今行く!」  大石がカゴいっぱいのTシャツにしかめっ面をしていた。練習で使ったTシャツを今のうちに洗っておかないと、午前の練習で汗だくになった後の着替えがない場合もあるから。  慌てて駆け寄って、二人で洗濯を始めた。宿にあるのは縦型の全自動。中に洗い物を入れて、洗剤入れて、スイッチを押すだけ。 「はぁ……マネージャー欲しいなぁ」  大石は相変わらずしかめっ面のまま。 「あ、大石、待って、落っこちる」  雑にただ放り込もうとするから、カゴからTシャツが零れ落ちて慌ててキャッチした。 「わりぃ!」 「もお……雑にするなよ」 「ごめんごめん。って、お前、よくそんな触れるな。汗臭いの」  キャッチしたTシャツが裏返っているものとか、半分だけ裏返ってるのとか、ねじれちゃってて、これじゃ、綺麗に汚れが落ちないかなって。ひっくり返しつつ洗濯機に入れていたら、すごく怪訝な顔をされた。 「あのね……みんな汗はかくだろ」 「くせぇじゃん」 「汗は臭いもので、しょ……」  ふと、言葉がつっかえた。  今、手に持ってるのが先輩のTシャツだったから。  顧問にはあらかじめ衣類には名前を書いておくようになんて言われたけれど、そんなのみんな子どもじゃないんだからするわけなくて。二年生は特にその辺、去年体験済みだから、それぞれ個性的なTシャツを着てきてた。  先輩は、これ……着てた。  黒地にグレーの絞り染めみたいな模様の入ったTシャツ。  大石は、そんなのバーっと洗っちゃっえばいいのにって、大雑把なことを呟きながら洗剤を入れようとした。ところが、箱の中はほんの少ししか残っていなくて、逆さにしてもパラパラ程度。全然足りない。けれど屋外にある洗濯機の近くには洗剤のストックもそれが置いてありそうな棚も見当たらなかった。 「洗剤どこにストックあんだろ。ちょっと訊いてくる」 「あ、うん」  大石は空になっていた粉洗剤の箱を片手に表へと駆けて行った。 「……」  誰も、今、いなくて……。 「……」  先輩のTシャツ。今日、これ着てたの見た。見てた。ずっと。 「……」  先輩の――。  考えたら、少し危ない人だよね。  汗のついたTシャツをさ、いくら好きな人だからって。でも、先輩の全部が俺は好きで、たまらなく好きで……。 「寝てた? ……幹泰」 「あっ……先輩」 「起きてた?」 「おかえりなさい」  ベッドで寝転がっていた俺の頭をそっと優しく撫でて、ふわりと優しく微笑む。窮屈だったと顔をしかめながら、ネクタイを緩めた。 「お前、好きだね……」 「ぇ?」 「俺がネクタイ緩めるところ」  知ってたんだ。 「すごい見てるから、わかるよ」  少し恥ずかしい。貴方のことが好きすぎるのを知られて、なんだか照れ臭い。 「お疲れ様です。どうでした?」 「んー、いい感じだったよ。これなら話は上手くいくと思う」 「やっぱり、俺、行った方が良くなかったですか? 社長だけ出向くって。秘書の俺が」 「だーめ」  俺の頭を撫でて、少し疲れてそうな溜め息を一つ落としてから、ネクタイをその襟首からするりと抜き、シャツのボタンを緩めた。 「うちの美人秘書は接待をするためにいるわけじゃないので」 「そんな」 「だめなものはダメ……」  ようやくリラックスできたと髪も手でほぐすと、優しく口づけをくれた。啄んで、少しだけ唇を噛んでくれる優しく甘いキス。 「ン……」 「寝るところだった?」 「いえ……留守番してました」 「ここで?」 「先輩の匂いがするから落ち着くんです」 「ぇ、まさか、俺……ついに……加齢」 「ち、違いますっ」  そうじゃないと慌てて否定すると、からかったんだと笑ってくれる。 「ベッド、貴方の匂いがして……」 「そう?」  知らないでしょう? あの時、ドキドキしながら、こんなの見つかったどうするんだよって思いながら、貴方の着たTシャツを抱きしめてたんだ。 「好きなんです……先輩の」  言いながら抱きついて、目を閉じながら、そのシャツに鼻先を埋めた。 「あっ……ン」  無謀に貴方の目前に晒された首筋にキスをしてもらって、甘い声が溢れる。溢れて、その吐息が貴方のシャツに触れて。 「あぁっ……ン」 「幹泰」 「んっ……ぁっ」  愛撫に火照ってしまう。 「先輩……」 「まだ、シャワー浴びてないよ、ミキ」 「へ、き……好きなんです」  鼻先を埋めて、その逞しい腹筋に口付けながら、スラックスの前を寛げた。 「先輩の匂いも……全部」 「っ、ミキ」 「好き」  そして、唇で触れた先輩のペニスに身体が濡れてしまいそうなくらい興奮した。  抱き合った後のゆっくり流れる時間が好き。中にはまだ貴方の温もりが残っていて。 「ね、ミキ」 「?」  事後のこういうのは苦手なんだって、先輩に少し前に言われたっけ。嫌いなのかと、慌てて離れようとしたら、腕を掴んで引き戻されて、その胸に閉じ込められた。好きじゃないと言ったのに? と戸惑っていたら、貴方は笑ってた。お前にベタ惚れなのがばれそうだろって照れ臭そうに。 「旅行行こうか」 「?」 「本当は二泊三日、いや、三泊四日がいいけど、予約取れなかったから、一泊二日」  けれど、事後の気だるくも甘い甘いこの感じが一日続けばいいのにって、笑ってもいた。俺のこと独り占めできるだろう? なんて、今更言うんだ。  もうずっと貴方しかいないのに。貴方しか、知らないのに。 「二人で」  そんな貴方が優しく俺の髪を撫でながら、とても楽しそうに子どもみたいに笑っていた。

ともだちにシェアしよう!