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春旅行編 2 普段と少し違う顔
急に旅行なんて言うからびっくりした。
「おー、すごいな。満開だ」
先輩が連れていってくれたのは桜の名所として知られている場所だった。
名所なだけあって、団体客も多かった。あっちこっちにツアーの一団がいる。
こんなところ、前もって予約しておかないと絶対に取れないだろうに。写真でしか見たことのない桜並木は薄ピンク色のトンネルのように空を覆って、その隙間から空の水色がうかがえた。でも少しだけピークはすぎたんだろう。散り始めている木もいくつかあって、その桜並木に沿うように流れている緩やかな川は一面花びらが浮かんで桜色をしていた。
風が吹くとはらりはらりと落ちていた桜が勿体無いほどたくさん水面に降り注ぐ、
「夜にも来てみよう」
「宿、この辺りですか?」
「あぁ、駅降りてすぐのところにあっただろ? あそこ」
やっぱり。前もって予約していてくれたんだ。仕事、忙しいのに。
「人もすごいな」
「はい。でもすごく綺麗です」
「あぁ」
「それと、すごく嬉しい」
「……あぁ」
手を繋ぎたいと思った。たくさんの人がいるけれど、でも、誰も彼も知り合いじゃないのなら、別にいいのではと思ってしまう。少しでも貴方に触れていたいなって。
「桜……綺麗だな」
ほら、きっと誰もが俺たちよりも空を覆うほどに見事に咲き乱れた桜を見つめることに忙しいから、と、二人とも自然と触れて、そっと手を繋いでいた。
「わ、すごい。さっきの桜並木が見えます」
「あぁ」
宿は川を挟んだ向かい側にあった。近くで見るとまさに圧巻だった桜の木が、ここからだと、ふわふわとした薄ピンク色が愛らしく見えた。
「ミキ、お茶淹れたぞ」
「! ごめんなさいっ、俺が」
「いいよ。別に俺が淹れたって」
慌てて駆け寄ると、俺に淹れてもらった方がきっと断然美味いけどなと笑って、手元にあった和菓子を食べてる。
「すごい人だったな」
「はい。こんなところ、人気だったでしょう?」
「んー、どうかな」
「俺、知りませんでした。旅行」
「言ってないからな。驚く顔が見たかったんだよ」
サプライズだ、と言いながら、畳の上に寝転がると、一つ小さくあくびをした。油断し切った顔をしてる。
ドキドキしたっけ。合宿の間中、普段と少し違う貴方にずっと、ドキドキしていた。
「ほら、白岡、お前の番」
「おー」
先輩もジェンガとかするんだ。
「うわ、これ、どこも無理じゃん」
「あ、渡瀬、こっちコールドスプレーもうない。ストックあったっけ? おーい、渡瀬ー」
「ご、ごめんっ、あったよ。待ってて」
一年生の俺たちは明日の練習の準備をのんびりとしていた。ゲームの類、電子の、そういうのは持ち込み禁止になっていたから、手持ち無沙汰なんだ。時間潰しにマネージャーの仕事をしていた。
夕食を終えた後は流石に陸部の女子もこっちには来れなくて、先輩たちはのんびり過ごしていた。
部屋は個室なんてわけなくて、大部屋に雑魚寝状態になる。うちの部は学年ごとの境目がフランクな方だったから、同じ大部屋の中、一年は一年でまとまってはいたけれど、そんなに先輩の目を気にすることなくのんびりと過ごしてた。
「むっず!」
あんまり知らない先輩の顔。
なんというか、学校のクラスとかではあんな感じなのかなって。
俺の知ってる顔は部活の時と、それから、登下校の時くらい。けれど、登下校の時は、俺が学校の近くに住んでいたからあっという間にその時間が終わってしまう。
あんな感じで話してるんだ。
「う……ぁ……おおおおおお!」
「すげー、白岡、ギリのとこ狙うな」
「そりゃそうっしょ」
「ぜーったいに負かしてやる。こんなところでも女子に囲まれやがって。おい! 負けたら、お前の今好きな奴言え!」
思わず手が止まってしまった。
「いーまーせーん」
いないんだ。そっか。前の彼女と別れたばっかりだからかな。
「嘘つけー! いるんだろ! あれか! B組の!」
同級生なのかな。B組の二年生女子。誰だろ。
「ちげーっつうの」
違うんだ。
「あ! しまった! 俺、水筒洗ってねぇ!」
「じゃあ、俺が洗ってくる」
「わりっ」
大石が思い出したと、ぴょんって背筋を伸ばした。水筒っていうのは部活用に持参している大きな給水ボトルのことだ。明日も使うし、夏場できちんと綺麗に洗っておかないといけないからと、もうほぼ空になったその水筒を流しに持っていった。
「ぐっ」
上についた、大きな蓋。指先を目いっぱい広げてギリギリ届く大きな蓋。それをどうにか開けようとしてるんだけど、誰なんだろ、こんなにぎゅっと締められたらちっとも開かない。
「ぅぐぐっ」
本当にびくともしないんだけど。
「うっ」
「貸してみ?」
「!」
水筒の蓋との格闘に集中していた。誰かが近くを通ったことも気がついてなくて、急に声をかけられて飛び上がってしまう。
「あ……先輩」
「開かないんだろ? 開けてやる」
白岡先輩だった。
大きな手で。
「っ、ほら」
「! あ、ありがとうございます」
その大きな手でいとも簡単に蓋を開けてくれた。
「どーいたしまして」
その手で俺の頭を撫でてから、向こうの大部屋で呼ばれてる声に少し雑に返事をすると、俺に、にこりと笑った。
「お前のターンだぞ!」
「はいはい」
笑って、また二年生の輪の中へと戻っていった。
俺は、しばらく心臓がうるさくて、忙しなくて、頬が熱いままだった。
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