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春旅行編 3 あの頃よりも

「一人で入っても……ね」  そう、ぽつりと呟いた。  部屋は一泊を二人で過ごすのは手に余る広さ。部屋食、個室露天風呂付き。少し豪華すぎる気がすると言ったら、個室露天風呂をつけたのは贅沢じゃないと言っていた。  ――俺がやらしくなるように仕立てた身体をよその男に見せるわけないだろ?  そう言うくせに。先輩は買い物をしてきたいからお風呂には一人で行っておいで、だなんて。 「つまらない……」  そう文句をこぼしても、先輩がいないから、自宅よりも広い風呂場でまんまるく背中を縮こませて膝を抱えた。 「……」  一緒に入りたいのに。  合宿で利用していた宿は民宿だった。大きめのお風呂があって、そこに時間割りにしたメンバーが入っていく。俺はあの人の風呂上がりの姿が見られるんだ、なんて、内心、心臓は小躍りしてうるさくて。 「はぁ、風呂あっつ……あ、渡瀬」 「!」  自販機にお茶を買いに行くふりをして、見かけることが叶った、風呂上がり直後の姿にものすごく、ドキドキした。 「わり、あとで返すから、俺にもお茶買って」 「あ、はいっ!」 「悪いな」 「い、いえっ」  話しかけてもらってしまった。髪が濡れてる。石鹸の匂いがする先輩に。 「サンキュー」 「だ、代金、大丈夫です! すみませんっ」  手持ち分のお金全部払いたいくらい。濡れ髪から落っこちる湯の雫一つに、見惚れるほど、その姿にドキドキして、俺は大慌てでその場を離れたんだ。なかなか冷静になってくれない心臓に手を重ねて、ぎゅっと目を閉じて。  あの時は翌朝、お茶代を返してくれたんだっけ。朝一番に「渡瀬」って声をかけてもらって、また飛び上がって、そんな俺に先輩は笑いながら。  ――昨日はありがとな。これ。  手の中に、お茶の代金と、それと飴玉を一つ置いてくれた。嬉しくて嬉しくて、丸一日の練習に大石含めみんな少しだるそうにしている中、俺だけは「ねぇねぇ!」とこの嬉しさを誰かに話したくてウズウズしてさ、練習をめちゃくちゃ張り切ってた。  あの頃は見てるだけで幸せだったのに。話しかけられたらもうそれだけで一日幸せでいられたのに。  今は……バチが当たりそうだ。  ちっとも戻らないあの人を、どこに買い物に行ったのかも知らないのに探そうと、部屋を出た。暇だし、連絡できればいい子で待ってもいられるけれど、スマホをまた持たずに出て行ってしまってるから、どこにいるのか全然わからない。  あまりスマホが好きではないから、よく持たずに出かけてしまうんだ。あの仕事をしていた時は肌身離さず持っていたから、その反動かもなって笑ってた。  その人がフロントのところで女性と話していた。  二人組の女性と。  あの頃はよく見かける光景だった。  憧れと好意がぎゅっと詰め込まれた視線、嬉しそうな色に染まった頬。女子ならではの小さな手をパタパタと動かして、俺よりもずっと細くて華奢で抱きやすそうな身体を揺らして。  あの頃よりもずっと欲深くなってしまった俺は少し苛立ってしまう。  今は、ああやって、ノンケの先輩が女性と話していることにも少しチクリと小さな針が指先に刺さる。了見が狭すぎると呆れてしまうほど。 「どうかしましたか?」 「あー、いえ……」  突然背後からの声に慌てて振り向いた。フロントのところで浴衣姿のまま突っ立っているのが不振だったんだろう。見知らぬ男性客が心配して話しかけてくれた。 「鍵が部屋の中で入れなくなったとか?」 「あっいえっ」  旅館はカードキーで入るときはそのキーが必要だけれど、出る時はただ閉めればいいだけ。そのせいでカードを持たずに部屋を出て入れなくなった、と思ってるみたいだった。  そうじゃないから大丈夫ですと慌てて首を横に振った。 「そうかい? でもその格好で夜の散歩は少し寒い、フロントで何か羽織るものを借りた方が」 「い、いえっ、自分でっ」  自分でやりますからと手伝ってくれるその男性客に駆け寄ろうとしたら、肩をぎゅっと掴まれた。 「すみません。彼は俺を探してただけなので」  先輩だった。  そして男性客は「あぁ、それは失礼」とその場を離れた。  先輩と話していた女性の方はまだフロントにいて、先輩が行ってしまったことに残念そうな顔をしてこっちを見つめている。けれど、先輩はもうその女性のことは気にかけず、俺の肩を抱きながら、そのままフロントを通り過ぎて外へと向かった。 「ったく、なんで、その格好で外に出るんだよ」  外は確かに少し肌寒い。 「だって、先輩が帰ってこないから」 「……待ってればいいだろ。あの男性客、絶対にお前のこと狙ってたぞ」 「そんなわけ……それに先輩だって女性が」  あの頃はあの人を自分のものにするなんて考えたこともなかったのに。今は随分と図々しくなったものだと思うよ。けれど、やっぱりこの人は自分のだと独り占めしたくてうずうずしているのを止められない。 「あれは訊いてたんだ。彼女たち花火をしていたみたいだから」 「……花火?」 「そ、お前としたくて、それを買いに行ったんだけど売ってなくてさ。彼女たちにどこでそれを買ったのか訊いたんだ。そしたら持参したって教えてくれて」  この人を引き止めたいと彼女たちは話を引き伸ばしていたんだろう。会話は聞こえていなかったけど、でもああいう場面には山ほど遭遇したことがあったから。けれど先輩は俺を見つけて、俺のところに来てくれた。それだけのことで満足していられたらいいのに。話しかけてもらえて一日幸せでいられたのに。 「花火、したくてさ」  今は、それだけじゃ足りなくて。 「それなら……」  この人は俺のって誰彼構わず言いふらしたくなるほど。 「夜の桜を見に行きたいです」  あの頃よりもずっと貴方に焦がれている。

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