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白岡(攻め)視点 3 擦り傷
「先輩」
抱きしめると温かくて。
「……ミキ」
指先がじんわりと熱を持った。
途中までは輝かしい道を歩いていたように思う。高校、大学と、人付き合いに関しても、勉強にしても、進路、未来にしても。けれど、途中で、石に躓くように転んだ。そして、転んだ先は――。
「すごいよかったわ……」
今日の客はまともだったな。要求されたセックスは一般的なものばかりだった。
「また、宜しくね」
「……ありがとうございます」
「ここの通りを真っ直ぐ行けば駅だから」
そう言われて、知らない路地に降ろされた。
「帰りの交通費もプラスしておいたわ」
まとも、じゃないか。繁華街を走る車の中でセックスしたいなんて。フルスモークってわけじゃない、目を凝らして中を見ようとすれば、顔だって確認できるような車の中、何度か信号待ちすると興奮が増すのか「楽しい」と呟きながら大きな声で喘いでた。
「……ありがとうございます」
もう、まともなセックスとそうじゃないものの区別も曖昧担ってきてた。商品としてのセックスが今回は普通の挿入する行為だったからまだ楽だったんだ。
仕事で吐き出せば吐き出すだけ、セックスはただの排泄行為地味ていく。
「っ」
普段、車酔いなんてしないのに。よろけて、何かに躓いて、街路樹に肩を強かにぶつけた。よかった。なんとか、転ばずにすんだ。こんな繁華街で横転なんて目も当てられないだろう?
「……」
石に躓いたんだ。そして、転んだ。
転んだ直後は痛いって思った。膝を擦りむいて。血が流れて。あぁ怪我をしてしまったと、急いで消毒をした。その消毒が悪かったのだろうか。擦りむいた傷はすぐに治って、また立ち上がって、自分がいた元の場所に戻っていけると思っていたのに。
その擦り傷はこれっぽっちも治らない。
治るどころか、酷くなるばかりで、膿んで、腫れて、また歩いて元の場所に戻るどころか、立ち上がることすらできなくなっていた。
どうやったら立ち上がれるんだろう。とにかく消毒をして化膿した傷口を治さなくちゃ、治さなくちゃ、治さ……。
治らない、んじゃないのか?
これはもう、ここに、この場所から立ち上がることなんて、できないんじゃないのか?
もう、ずっとここにいるしか……だって、ほら、膿んだ足からどんどんどんどん痛みが鈍く、くすんで、薄れていく。痛くなくなっていく。
そのうち触れる感覚も消えていく。
そしたら、苦しくなることもないだろう?
痛くないのだから。
あるかどうかわからないほど、触ったところで感覚はなくなっていくのだから。
もう向こうに登っていくことはできないだろうけれど、もう、仕方ないだろう?
そう、思った。
ほら、また仕事のメールが入ったんじゃないのか? 今日の客はただのカーセックスがお好みだったんだから、もう一回くらい吐き出せるだろ? ほら、そしたら稼げる。だから、ほら――。
――同窓会のお知らせ。
――仕事依頼。
仕事の連絡だと、客の身体を弄ることに忙しくしすぎて、麻痺しかけてる指先を不器用に動かした。スマホを見ると、届いたメールは二通。
どうだろうな。今度の職場はホテルだ。ラブホテルでもない。ビジネスホテルでも、ない。目印は白のコートとブラウンの鞄をちゃんと右手に持っている。あぁ、逆にダメな客かもしれないな。こういう全てがまともそうな場合は大概、中身がひどく穢れていて、吐き気しかしないんだ。射精、できるだろうか。できないと、終わりが長引くから嫌なのに。
溜め息を溢しかけて、もう一通のメールを開けた。
同窓会の連絡。
同級生の、ではなく、部活の、だった。
部活の。
―― ! こ、こんにちは!
鮮やかなピンク色を思い出す。
――先輩。
ボールが、カラフルなボールがトントンと小さく弾むような、あの声を思い出す。
小さな頭を撫でた。柔らかい、指先にしっとりと馴染むような黒髪の感触を思い出した。客の身体を弄ることに忙しすぎて、段々と指先の皮膚が毛羽立って、小さく小さく、皮膚が捲れて、何を触っているのか、肌なのか、石なのか、もうわからなくなりかけていた指先が懐かしいあの感触を思い出す。
気がつけば、参加、をその指で押していた。
哀れになるだけなのに。
行けば、あの前の居場所にいた自分のフリなんて虚しいことをするだけだ。本当はそこじゃない、下の砂利と雑草と石しかないような場所にいるのに、嘯いて笑ってるだけなんて、笑えないほど恥ずかしくなるだけだ。
けれど、あの桃色を見たかった。
あの声を聞きたかった。
まだ、このゴミ屑みたいな身体でも、それなら感じられる気がしたんだ。
そう思って当日行ってはみたけれど。
声はあまり聞こえなかった。
触れるほど近くにも行けなかった。
ただ遠くで、いっこ下にいた後輩をチラリと何度か見ただけで終いにした。
「あれ? もう帰るの? 二次会は行かないのかよー、白岡」
「あー、悪い、このあと予定があるんだわ」
そろそろ時間だったから。
「あ、もしかして彼女? おっまえ、変わらずモテまくりかよー」
「はは、そんなんじゃない」
仕事の時間。偶然にも指定されたホテルはすぐ近くだった。歩いていける距離。
「また飲もうぜ」
「……あぁ」
「今度、女の子紹介しろよなっ」
「……あぁ……あぁ……あぁ」
途中から作り笑いに、録音したかのような同じ返事を何度か繰り返して、その場を離れた。何も知らないで笑って話しかけられて、楽しいどころか、気晴らしどころか、どんどん膿が膝から溢れ落ちていくのを堪えなくちゃいけないだけだった。
このあと、その膿だらけの足で――。
「先輩」
足で――。
「代金は先払いがいいですか?」
目印は白のコートとブラウンの鞄を右手に。
「一晩、五万ですよね」
振り返ると、白のコートにブラウンの鞄を右手に持ったいっこ下の後輩がいた。
「先輩を買うの」
桃色の頬がその白のコートのせいか、制服姿の頃を思い出させて、懐かしくて、驚いた。
「先輩」
指先がじんわりと温かさを感じて、自分にまだこんなに体温が残ってることに、ひどく、驚いた。
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