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待ち合わせの約束

「空気を入れ替えましょう」  蛍光灯のスイッチパネルの下にある換気扇のスイッチに誠也の手が伸びた。ぶうんと音がして、僅かずつ空気が軽くなっていくのを感じながら、ぼうっと誠也を見上げていると、ふっと視線を落として誠也の眉が寄った。 「具合が悪いんじゃないですか? どうせまたここで寝ていたんでしょう。救護室のベッドが空いているから使えばいいのに」  このロッカールームから廊下を挟んで斜め対面にある部屋を肩越しに示す彼に、祐次はぶんぶんと勢い良く首を振った。 「そんな滅相もない! 僕なんかが使ったら布団が汚れます。それにあれは不測の事態のお客様用で」  でも、と誠也の手が、祐次の肩から腕を撫でるように掴んだ。 「そんなことを言ってたら、本当に倒れてしまいますよ」  触れられている部分から、体温と共に優しさが沁み込んで来る。それが口先だけの社交辞令だとしても嬉しくて、祐次は泣きそうになりながらまたそっと首を振った。 「開店前の見回りの時間なんでしょう? こんなところで足止めさせたら、叱られてしまいます……」  同じように一晩をモール内で過ごしているというのに、この清廉な姿は反則だ。  並んで立っているだけで更に自分が惨めになりそうで、祐次はそっと手を外して半分だけ開いたままのドアに手を掛けた。 「待って。朝飯の誘いに来たんです。早朝作業で上がりですよね」  脇をすり抜けて倉庫の方へと向かおうとする気配を見せた祐次を、肩や胸ポケットに装飾の付いた白いシャツが押し留めた。百六十五センチと平均よりやや低めの身長の祐次は、疲れた表情でそのまま佇んだ。 「予定では、そうですけど……」  続く言葉を飲み込む。そのことは誠也も承知していた。これまで何度も誘ったが、仮の約束が実行される確率はかなり低い。  それでもこうして懲りずに誘うのだから、自分は相当気の毒そうななりをしているんだなと、祐次は誠也のお人好しさ加減に苦笑してしまうのだ。  それに、と続ける祐次の声は尻すぼみだ。 「せめてシャワーでも浴びないと、店には入れないです」  伸びかけの無精髭。汗を吸った上にくしゃくしゃの作業着。行き先が二十四時間営業で安さが売りのチェーン店だとしても、それが一人ならまだ人目をさほどには気にしないのだが、隣や向かいに誠也がいるとなれば話は別だった。  あの人、かっこいいね。そう囁き交わしながら若い女性の視線が集まる。その傍らの自分を見て、でも友達は選ばないと、とこうくる。眉が顰められ、更に低く落とした声音で汚いダサイと囁かれる。  容易く想像出来てしまうだけに、その嫌な思いを誠也にもさせてしまうのが苦しくて、緩く首を振った。 「じゃあ、ランチに行きましょう。一旦帰宅して着替えてから十一時に駅前で待ち合わせ。どうですか?」  職場以外で待ち合わせるのは初めてだった。  長期出張の形でこちらに来ている祐次には、地元の友達がいない。また社用の軽トラックしかないからドライブで気分転換も出来ず、たまの休日も大抵は引きこもってごろごろして過ごしている。それは何処の地方に行っても似たようなものだったから、例え友人とでも待ち合わせなんて一体何年ぶりだろうかと、見開いた瞳が輝いた。 「そ、それなら」  こくこくと頷く祐次に、良かったと誠也は目元を綻ばせた。身長が低くてしかも童顔の祐次は、ともすれば高校生でも通じそうなくらいに若く見える。一昔前に盛んに使われたしょうゆ顔と言うのだろう、ほっそりと卵形の輪郭に癖の無いパーツが収まっており、どちらかといえばカッコイイと評される部類の顔立ちだ。  それなのにいつもやつれていて腰が低くて困ったような笑みを張り付かせていて、それが誠也には歯がゆい。誰も彼も祐次の優しさに甘えすぎているのが我慢なら無くて、それでも部外者がと言われたらお終いなので口に出せずに、折を見ては誠也から食事に誘っている。 「楽しみです」  そう笑った祐次の顔が本当に嬉しそうだったから、誠也はほっと吐息して体を捻った。 「じゃあ、また後で」  祐次はロッカールーム兼店舗内事務所である控え室から出て、その数倍の広さを有する隣の倉庫に入って明かりをつける。一斉にではなくぽつぽつと点灯する無骨な蛍光灯の明かりの下で、夜間作業を終えて休憩している機械や道具をぐるりと見回して、洗い忘れのパッドやモップがないかとチェックしていく。  夜間スタッフは昼間に自分の職場で仕事を済ませてから小遣い稼ぎに来ている青壮年の連中ばかりだから基本的にきちんとしている。ただ、自我が強くこうと勝手に解釈して他のスタッフの意見を聞かないことも多いから、一旦衝突すると実に気まずいことになってしまうのだ。たまに片付けを忘れて放置しているのをシニアスタッフばかりの早朝組に見つかればここぞとばかりに突っ込まれるから事前に防ごうとついついチェックしてしまうのだった。 「おはようございます」 「市村くん、おはよう」  自走式の洗浄機に水と洗剤を入れていると、早朝スタッフたちの元気の良い声がドアを開ける音と共に雪崩れ込んでくる。  定年後の暇潰しと小遣い稼ぎを主としたメンバーだから殆どがマイペース。自分たちの孫ポジション扱いである祐次の背中や肩をバシバシと叩いては自分のシフトに必要な道具を揃えて行く。 「市村くん、予報では曇りだけど雨が降りそうな空模様だよ。傘袋出しとく?」  立ち上げの時からいる女性がハキハキと声を掛けた。七十も近い人だけれど毎朝きっちりと化粧までして五時過ぎにはやって来る頼りになるスタッフだ。慣れているからこうして先回りして提言してもくれる。 「あ、お願いします。他にも風除室担当の人に伝えて頂けると」 「わかってるわよ。全く、またそんな疲れた顔で。どうせまた家に帰ってないんでしょ」  眉間に皺を寄せてから、女性は他のスタッフにも声を掛けていく。 「ここはいいから隣でお茶でも飲んでなさい よ」 「何かあったらピッチに掛けるから」  他のスタッフにも顔を顰められ、半分以上追い立てられるようにして祐次は元の部屋へと戻った。  続々と出勤してきたスタッフと挨拶を交わし、今度はテーブルではなく電話機の置いてある事務机の椅子に腰掛けてから、昨晩買った飲みかけのペットボトルを手に取った。誰かの土産らしき饅頭がテーブルの上に置いてあり、その状態のものは「ご自由にどうぞ」と暗黙の了解なので遠慮せずに一つ口に運んだ。  黒糖の効いた餡子の甘味がじんわりと口の中に広がり、もうずっと固形物を受け付けていなかった胃の中に落ちていく感覚に苦い笑みが浮かぶ。五時半。人気の無くなった室内で一人、そっと目を閉じた。  窓が無いから人がいる間は蛍光灯が点けっぱなしで落ち着かないが仕方ない。  微かに空気を攪拌する換気扇の音を聞きながら、どんな服で出掛けようかとぼんやりと考えた。

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