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慣れたくない「いつものこと」

 コール音で祐次は覚醒する。いつの間にかうとうとしていたらしい。頬杖を突いていたのと反対の手で外線の受話器を上げて左耳に当てながら右手でボールペンを持った。寝ぼけていても条件反射だ。 「おはようございます、市村です」 『おはよう、市村くん。』  所長の青木だった。ついと視線を動かして自分の腕時計を見ると八時が来ようとしている。八時半出勤の青木からの連絡となれば嫌な予感しかしない。 『悪いんだけど、午後からの出勤にするよ。孫が熱を出してねえ。病院に連れて行って、嫁が早退してから交代で出勤するから』  しても良いかの確認ではなくて、予定を告げている。いくら肩書きは所長でも本社で正社員の祐次の方が立場は上なのだけれど、年配者は多かれ少なかれ自分の意見が正しくて通るものだと考えているから怖い。  反論する気力も無くて、わかりましたと告げてからそっと受話器を置いた。叩き付けたい心境だがそんな労力すら勿体無い。  これで少なくとも昼過ぎまではここに居なくてはならない。誠也の笑顔を思い浮かべて、祐次は胸ポケットから自分の携帯電話を取り出した。  行けなくなりました。とても残念です。  これでいいかなと一瞬思考して、えいやと送信ボタンを押す。まだ勤務時間内だし声を聞くと涙が出そうだった。メール機能が付くようになって、携帯電話は格段に使い易くなったと思う。文字だけだから感情の揺れが伝わり難い。  メリットよりデメリットの方が多そうだが、今の祐次にはそれが救いだった。  八時を回ると今度は昼のスタッフが出勤し始める。早朝・夜間は客が居ない中で清掃作業をするので揃いの地味な作業服だが、下は大学生から上は子供が手を離れた五十代の主婦まで幅広い年齢層の女性たちが赤のタータンチェックのキュロットと白が基調のシャツにやはりチェックのベレー帽を被って店内を泳ぐように移動しながら綺麗に保っている。基本的に二~三時間しか働かない人が多いのは、子供が学校に行っている間に少しでも家計の足しにしようという働き手ばかりだからだ。しゃきしゃきとこなすが、自分の都合が優先だから夕方以降はシフトを組むのに四苦八苦する上、学校行事が重なる日は最悪だった。こぞって休まれてしまうのである。それでも、募集を掛けても清掃業に来てくれる若い人は殆ど居ない現状、どんなに理不尽でも上手くやっていくしかないのだ。  昼間のスタッフの働き方を売りにしている本社は、現場の苦労を知りつつも待遇を改めてはくれない。切り抜けるのも才覚と放り出されて、結局のところ自分の身を削ってでもどうにかするしかないのである。  理不尽すぎる……。  眠くて眠くて仕方ないが、朝礼の時間だったから、一仕事終えて部屋に帰ってきた早朝スタッフとメインのスタッフを交えて、祐次は本日の危険予知や連絡事項などを伝え合った。  十時の開店に合わせて、巡回スタッフが三人出て行くと、また室内は静かになる。  今日が木曜日なのがせめてもの救いだなと、祐次は机に突っ伏した。  定休日のないショッピングモールは、平日はそこそこの人出だが土日祝ともなると床が見えないくらいの人でごった返す。しかも主婦層がシフトに入ってくれないため、巡回の定員五人すら集まらなくて、最終手段として祐次がゴミ回収だけでもと店内作業に出なければならないうえにトラブルも多くてひっきりなしに簡易携帯電話が鳴り続けるのだ。  コンコン、とノックの音がして、返事より前にそっとドアが開いた。誠也だった。 「木村さん」  驚いたものの囁くように掠れた声しか出せず、ロッカー横のカーテンが開きっぱなしで他に誰も居ないと視認してからそのままするりと誠也が入室してくるのを座ったまま呆然と眺めていた。 「差し入れです」  目の前に、ビニール袋から取り出したホットサンドとカップのコーヒーが置かれる。息を呑む祐次の机の脇に折り畳みの椅子を広げて、誠也が腰掛けた。 「ありがとう、ございます。あの、お金」 「差し入れなんだから、気にしないで食べて下さい」  腰を下ろすと視線が少ししか上下しなくていいなと思いながら、素直に頷いてカップに口を付けた。体に沁みこむような、甘いカフェ・オレ。確かに祐次は好きだけれど、これって成人男性に勧めるには少し甘すぎるのではないかと思いながら、ちらりと誠也を見上げた。 「青木さんが来られないんですか」  祐次の疑問には気付かずに、誠也は感情の篭らない声を出した。 「ええ、よくあることです。お孫さんが熱を出して」  自分だって納得がいかないが、怒るだけ無駄であるのは身に沁みてわかっている。祐次は苦笑いしながら半分ほどカップの中身を飲んで机に戻した。  良く見れば誠也は私服に着替えている。もうじき初夏と呼ばれる季節に入るけれど急に気温が下がる日も多いからか、長袖のシャツに半袖を重ね着していて、秀麗な眉を寄せて吐息している。  なんて綺麗な生き物なんだろうと見惚れていると、それに気付いた誠也がぱりぱりとサンドイッチの袋を開けてくれた。

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