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ささいな価値観の違い
「ずっと食べていないんでしょう。どうぞ」
どうやら疲れてぼうっとしていると取られたらしく、ハッと我に返ってベーコンと野菜が沢山挟まっているそれを受け取ってぱくりとかぶりついた。
食べ終えてから「うまかったです」ともう一度礼を言うと、誠也は華やかに笑った。
「開店直後のカフェから直行で持って来ましたからね。美味しいのは当たり前です」
今度は一緒に食べましょうと言われて、祐次は恐縮しながらもくすぐったそうに微笑みながら頷いた。
腹が膨れたからか、雑談をしている内に目がとろんとしてきた祐次に気が付き、誠也は暇を告げた。自分は時給月給で残業手当もつくから時間内は真剣に仕事をするが、祐次は月給固定のサービス残業であるらしい。
こんなにやつれてまでどうしてその企業に奉仕し続けるのか誠也は理解に苦しむが、そういう人間が居るから社会は機能しているのだろうとも思う。
確か今晩も夜間シフトに入るはずだと記憶を手繰りながら、誠也は身分証明も兼ねているクレジットカードをスキャナーに通して従業員出入り口から退出した。
姦しい喋り声に揺さぶられるように意識が浮かび上がり、祐次は腕の上からがばりと頭を上げた。
午前から午後へとシフトに入っている二人が楽しそうに笑いながら弁当を食べている。
「ほら、あんたの笑い声が煩いから市村さん起きちゃったじゃないのさ」
神経質そうな口元を歪めて一人が文句を言い、ごめんねえと祐次に頭を下げながらも当のもう一人は笑顔を崩さない。
同じテーブルで立ったままシフト表を確認していた水上雪子みずかみゆきこが顔を上げて事務机に寄って来た。
「市村さん、眠いの通り越して顔色悪いですけど……大丈夫なんですか? 青木さんはまさかドタキャンじゃないですよね、係長が居ない時に」
大学生を除けば最年少の水上はサブ・マネージャーの肩書きを持っている。それでも時給で働いていることに変わりはないのだが、備品管理やシフトの調整などをこなす時間も仕事に加えることが出来るようになっていて、他のメンバーにはそういった事務仕事が回らないためかやっかみ半分に色々と愚痴を言われることも多い。羨ましいならばいつでも代わって差し上げますがとキッパリ言い返す彼女は、唯一の同士のような気がする。年齢は確か向こうが一つ上だったか。しかし身長も祐次と同じくらいなのでまさしく同士以上の感情を向こうは抱いている様子は無かった。
ちょっと失礼といって水上の手の平をおでこに当てられる。ヒューヒューと外野が茶化したが、水上は華麗にスルーして「熱は無さそうですね」と吐息しながら、少し体温の低い手が離れて行った。
「もうすぐ来るだろうから大丈夫ですよ」
「いいえ、今すぐ即刻帰って寝てください。私と入れ替わりに来て下されば十分ですから」
十三時から二十一時までシフトに入っている水上だとて、予定では間に三十分しか休憩を入れていない。それ以外はずっと立ち通しの歩きっぱなしだ。それでもシフト以外の呼び出しにも応じる覚悟で簡易携帯を手に取った彼女のために、祐次はゆっくりと腰を上げた。
帰宅してシャワーを浴びると、髪も乾かさずに泥のようにぐっすりと眠った。夢の中で誰かが抱き締めてくれた気がしたが、目覚めると綺麗さっぱり忘れてしまっていて、ただ甘酸っぱい奇妙な感覚が胸の奥にわだかまっていた。
電動のシェーバーで髭を剃り洗濯済みの作業着に袖を通すと、鏡の中の自分はバイトの高校生でも通るくらいに幼く見える。それなのにいつも目の下に隈など作っているから余計にアンバランスなのだろう。
童顔にももう慣れたものだったけれど、同じ年だろう誠也の隣にいると余計に劣等感を煽られて、一時期はわざと髭を放置していたこともある。スタッフ全員のブーイングに遭いあっさりと断念する羽目になったのだが。
ワンルームのアパートを出て、一人でセルフうどんの夕食を済ませてから職場に向かった。
個人の携帯電話に何もなかったから、恙無く日中は過ぎて行ったのだろうと一応安心はしている。今日は体力と時間にゆとりがあるからと軽トラックを使わずに出勤して従業員出入り口でカードをスライドさせると、ガラスの向こうで数十個並ぶ監視カメラのモニターを眺めていた誠也が振り向いた。
お疲れさまです、こんばんは。いつも通りに交わされる挨拶が済むと、もう一人の警備員はすうっとモニターに顔を戻した。誠也だけがじっと祐次の顔を見つめて、それからふんわりと微笑んだ。
きっと顔色のことで心配していたんだろうと考えて、祐次は殊更安心させようと笑顔を作ってから会釈してバックヤードに入った。
だから背を向けた途端に誠也の表情が翳ったことには気付かなかったのだった。
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