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減らない負担

「おはようございます」  夜中でも一日中朝の挨拶をする業界なんて嫌だなあと脳内で祐次はひとりごちながら、そういえば先刻は無意識にこんばんはと言ってしまって失敗したと思う。  朝会っているから誠也にはそれでもいいかもしれないが、もう一人には笑われているかもしれない。まあ、過ぎてしまったことはどうしようもないのだけれど。  夜間スタッフがミーティングをしていたようで、一斉に視線が集まる。まとめ役の難波が険しい顔をしていた。 「どうかしましたか」 「伊倉さんが仕事中に足を骨折したようで、今日から一人欠員が出ます」  夜間は青年期の若者が多いのだが、定年間近でベテランの伊倉は、頼りがいのあるメンバーなだけに痛手は大きい。けれど、これは青木のような理由とは比べ物にならない真っ当なものだけに次善のシフトを組み直さねばならない。 「今日は僕が入ります。シフトの調整は難波さんにお任せします」  頷く難波の顔は、未だ険しい。ぱらぱらと倉庫に向かうスタッフの中で、祐次は自分より頭一つ上のある難波の顔を見上げ続けた。難波も同年代で頼れる兄貴分という立ち位置だ。仕事で残業になってもきちんと切り上げて間に合うように来てくれる。野性味のある精悍な顔はそれでもいつも優しげに微笑を浮かべているのに、今日は少し機嫌が悪いようだった。 「あの、俺なんかが言うことじゃないんでしょうけど」  言い淀む難波を促すように、はい、と祐次は口元を引き締めた。 「今、ピッチ持ったまま水上さんが店内回ってますけど、青木さんは十八時前には帰っちゃったみたいですよ。何かあったらピッチにってメモが」  ぴらりと差し出された白いメモ用紙には、水上の字で書き置きがあった。  お疲れさまです。夜間のみなさま、市村さんへ。青木さんは十五時頃に来られましたが、十七時半には日報を記入して帰られました。引き続きPHSは私が持っています。店内から呼び出しがあれば内線で掛けてください。水上  眩暈がしそうだった。顔を顰めた祐次を見て、難波が吐息する。 「本当にこんな遣り方でいいんですか。確かに彼女には一応の肩書きがあるけど、俺たちと一緒の立ち上げメンバーで正職員じゃないんでしょう。モール側のスタッフからも訝しがられていますよ」 「そうですね……」  釣られて吐息する祐次の肩を叩こうとしたのか、難波の腕が上がり、けれど何処にも行き着かずにまた下ろされた。  難波だとて理解しているのだ。祐次には何も権限がないことを。そして訴えるべき相手である大田は滅多に夜間スタッフの前には現れない。  閉店前の音楽が流れ始めて、二人の間のどうしようもなく重い空気が動いた。 「行きましょうか」  先に部屋を出る難波を見送り、シフト表で伊倉のコースを確認してから祐次も倉庫に向かった。  風除室を回っている途中で、九十リットルのゴミ袋を片手に四つ掴みもう片手でゴミカートの蓋から溢れんばかりに瓶と缶を覗かせて引っ張っている水上と行き会った。 「凄いですね」 「何度も往復するのは面倒ですから。市村さんより力持ちかもですよ、私」  からかうように微笑みながら店外に出ようとして、水上が振り向く。 「そうだ、後で机に弁当を置いておくので、良かったら食べて下さい」 「え、いいんですか」 「捨てるよりマシですから」  断る様子のない祐次と目を合わせてから、それじゃお先にと水上が去って行く。ストライドが大きく颯爽と歩く彼女の横からは、モールの別部署のスタッフが次々と声を掛けて、それに軽く答えながら速度を緩めずに歩き続ける。  それを羨ましげに見つめていた自分に気付くと、祐次は首を振ってから作業に集中しようと手元に視線を戻した。  そうして日付も変わり、片付けを済ませて控え室に戻ると、言っていた通りに二段重ねの弁当箱が包んで置いてあった。流石に箸は持って帰ったらしく、いざという時用に誰かが置いてくれている割り箸が添えてあった。女性向けの小さな弁当箱だったけれど、祐次には十分な量だ。今夜はワックス作業もないしアパートに持ち帰ってから頂こうと思って、空いている手提げのビニールでもないかなと辺りを見回す。  午前中に誠也が来てくれた時に確か袋に入っていた筈、と流しの引き出しを開けてみると、スタッフの誰かが小さく折り畳んでしまっている中にそれらしきものを発見する。大きすぎても変だからとそれを広げて収めるとぴったりだった。一人悦に入って消灯してから廊下に出ると、モニタールームから誠也が出てきたところだった。  お疲れさまですと言い合ってから、ふと視線を落とした誠也が僅かに首を傾げる。 「あ、袋を再利用させてもらってます。丁度良い大きさで」  少し持ち上げて見せると、更にじいっと見つめて、もしかしてと誠也は呟いた。 「弁当、ですか」  微笑していた筈なのに何故か空気が冷えた気がして、祐次は訳も無く焦燥する。と同時に手荷物検査があることも思い出した。大抵いつも手ぶらだから帰るときにも風除室に待機している警備の横を素通りするのだが、手荷物があれば開けて中を見せなければならない。商業施設ならではの万引き対策だった。 「あの、水上さんが、捨てるよりマシだからって。ほら女性って寝る前には太るからって食べないみたいで。ああ、つまり休憩に入れなかったみたいで自分のをくれたってことなんだけど……折角だし、頂こうかなと」  そう言いながら祐次が半透明の袋を広げて見せると、もういいですという風に手の平で制された。 「ああ、サブマネの。彼女はなんでもこなせそうですね。彼氏にも尽くすタイプなのかな」 「さあ、どうでしょう……彼氏は、いるみたいですけど」  夕食と休憩を取りはぐれたスタッフに申し訳ないという気持ちより嬉しさが先立ってしまった自分を恥じて、そのことに今更気付いたのを責められていると感じた祐次は視線を落とした。 「そうですね、うちの植田もそんなことを言ってました」  植田は同年代の警備員で、このモールでは唯一の女性スタッフだ。長いストレートの髪をいつもきちんと結い上げて、タイトなミニスカートとスニーカーで闊歩する姿は勇ましい。水上よりも更に高身長で姿勢も良いため、祐次などは傍に寄ることすらおこがましいと感じている。  そんな植田と水上は、属する部署が違うけれど気が合うらしく、時間のある時には少しずつ言葉を交わしているらしい。そう、今の祐次と誠也のように。  不意に訪れた沈黙に対処できなくて、祐次はお先にと頭を下げて風除室に出ようとした。その二の腕を掴まれて、たたらを踏む。振り仰ぐと真剣な瞳で見つめられていた。

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