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約束
「長くないと良いんですが」
きっちりとシフトに組み込まれている水上は腕時計を気にしながらも、通路を挟んでの斜向かいにある事務室の扉をノックして失礼しますと入って行く。そうしてからようやく入る順を間違えたと足を止めて、ドアを押さえてから上司二人の入室を待ち静かに閉めてから後に続いた。
殆どの職員が自分の席に着いて仕事をしている中、椅子と椅子の合間をすり抜けて一番奥へと向かう。応接室は別に存在しているけれど、今回はそこまで改まってもいないしその他の職員の耳に入っても差し支えない内容なのだろう。
奥のデスクの手前で他の職員と立ったまま話をしていたマネージャーの須脇が三人に目を留めて会釈した。五十を越えたところで気力体力貫禄と十分に兼ね備えた人物である。きっちりと三つ揃えを着こなし腹も出ていない。店内でもバックヤードでも誰にでも挨拶をして颯爽と歩く姿はトップたるに相応しいと周りに示しているかのようだ。
「単刀直入に言うが、水上さんを日勤の常駐には出来ないのかね」
大田も市村もてっきりクレームだと構えていただけに、予想外の問い合わせにぽかんと口を開けて返答に詰まってしまった。そんな上司二人を情け無さそうに横目で一瞥して、水上が口を開く。
「それは色々な面で不可能かと思われます。そして、急にそのようなことを仰られる理由を教えていただけませんか」
不可能、とキッパリ言い切る水上に瞠目し、須脇は苦笑した。
「あの所長という人物だがね、ワックスの工程や見積もりすら出来ないじゃないかね。こちらも平日の方が時間があるから出向いているのに、お話にならない。後日後日と先延ばしにされて困っている。水上さんなら即日でも作業に入れるだろう。まあ他にも色々あるが、兎に角自分には出来ない判らないの一点張りの人を平日の常駐にしておくのはどうかと思うよ」
腕組みして見下ろされている水上は、それでも臆すことなく目を合わせていた。
「それは大変申し訳ないことをしました。今後は、私が当日チェックして書類を提出してから退出致します。当面それで勘弁して頂けませんか。申し訳ないのですが、スタッフが引継ぎで待機していると思うのでお先に失礼させて頂きます。店内に出ますので、決定事項は後程お知らせ頂けると助かります」
「ああ、時間を取らせて悪かったね」
挑むような瞳を見つめ返して、須脇は鷹揚に頷いた。深く腰を折ってから踵を返して去って行く水上の背は、何かに憤っているのは確かだった。
残された二人は、彼女が去った後に明らかに機嫌を損ねた様子の須脇に戦慄していた。
「あの、失礼な言葉の数々お許し下さい」
大田が俯きがちに上目遣いで須脇の顔色を窺うと、須脇は口元を歪めた。
「私が気分を損ねているのは、彼女のせいではないよ」
祐次は得心して心の中でだけそっと溜息をついた。これはきっと会社のシステム自体に言及しているのだと悟ったのだ。
須脇のような全体のまとめ役であっても、椅子にふんぞり返って指示だけしているわけではない。毎日モール中を歩き回り、店内及びバックヤードでの従業員たちの様子をつぶさに観察しているのだ。その辺りをぼっちゃん育ちの係長は理解していない。
「時に大田くんは、休暇明けのようだが」
はい、と姿勢を正したものの、大田は不思議そうな表情をしている。
「市村くんや水上さんの勤務時間数と連勤日数は把握しているのかね。いくらパートで勤務時間が平日は少ないとしても、休日は必要だろう。それは正社員の市村くんにも言えることだと思うけれどね。まあ、提携していると言うだけで別会社なわけだから、これはただの雑談なんだがね」
ちくりちくりと刺すような声音が、果たしてどれほど大田に届いているだろうかと祐次は俯いていた。
自分が言えない事を言ってくれたと感謝する気持ちもあるのだが、室内で静かに仕事をしている他の従業員たちも聴くともなしに聞いているだろう。きっと呆れられている。
しっかりしろと、須脇の眼差しが告げている。
肩を竦ませて黙って立っている祐次と、曖昧に頷いている大田を交互に見遣り、
「働きに見合うだけの手当てはつけないと、いずれ会社は淘汰されるよ」
そう付け加えてから、ご足労でしたともう一つ奥の部屋へと消えて行った。
黙ったまま退出する大田に従い控え室に戻ると、ここ二ヵ月分のシフト表と出勤簿を事務机に載せて、祐次は未決の箱に入ったままの書類を手に取りテーブルの丸椅子に腰を下ろした。
気付くか、気付かないか、ただそれだけの話だ。タイムカードが無いから、スタッフに関しては両方を見なければ把握できない。トータルの勤務時間はフルタイムの正社員が残業するより少ないかもしれないが、実働時間以外の待機時間と準備の時間、そして通勤時間だって拘束されていると考えるならば、実際の水上と祐次の休日は月に二日程である。
勿論有給休暇など毎年消えてなくなっている。本社がいくら使え使えと書面で催促してきても、週休二日の大前提すら覆されているのだからどうしようもない。
未だにアナログで認印を押すタイプの出勤簿を眺め、大田は溜息をついた。
「そうか、これは酷いな」
改めて言うまでもなく、連勤の水上は真っ赤で、平日の一番暇な開店後二時間ほどしか出ていない人も出勤簿だけなら週に五つ判がある。大学生は二人しか居らず、土日祝にしか判がなくても、フルで昼から閉店まで、朝が埋まらなければ朝から閉店までと過酷な勤務状況だった。十二時間も働き続けのアルバイトなど早々ないだろうと思われる。
「僕は男だからまだいいんですが」
そっと口を開く祐次に、大田が視線を移す。
背凭れのある事務椅子を回転させて肘を突き、シフト表をひらひらとやって先を促しているようだ。
「こないだも、水上さんは昼から入って閉店で終わりの筈だったのに、夜間に休みが出て急遽残ってくれて……。片付けて帰って、早朝の搭乗式洗浄機を扱える人が来れなくなったので、また出て来てくれて」
帰宅したのは深夜一時を過ぎていただろう。
それから仮眠を取って五時にはまた家を出た筈だ。その時にはモニタールームにいた夜勤の警備員たちも驚いていたのを憶えている。
「正直、今のままでは破綻します。水上さんが現場に出られなくなればここは回りません」
そう、いくら若くとも二十代後半なのはお互い様で。こんな勤務の仕方をしていて体調を崩せばそれだけで全体に大打撃だ。
転職前の職場は、有休は取れずに捨てることはあっても、週休二日は会社自体が休みだったから必ず取れていたという。それなのに業務内容に不満が出てこちらに転職した彼女は、今心の中ではどのように考えているのだろうと思う。
体調云々よりも、不満が爆発して辞められる事も視野に入れておかねばならないというのに、大田は無頓着すぎる。
とはいえ、それは自分も指摘されても仕方が無いことなのだ。
昨夜の誠也の態度を思い出すと、自分も無頓着で情けない男と認識されているだろうとがっかりしてしまう。虚勢を張りたいわけじゃないけれど、呆れて見放されたらもう立ち直れない気がした。
「青木さんには、僕からも言っておくよ」
何をどう伝えるのかは知らないが、白いマスの多い出勤簿を見ながら大田が言った。
水上は先刻書類の件は自分がと言っていたが、シフトに入っているのにそんな手間まで掛けさせられない。少し前までは持ち帰ってシフトを作成してくれていて、それだけは備品管理と同じように出勤時間に組み込めるように改善したばかりだ。そんなことにすら文句を言うスタッフがいるのも確かで、だから余計に彼女は見えないところでこっそりと済ませようとしてしまうのだろう。何も言わず巡回に出て行った背中を思い出し、祐次は居た堪れなくなる。
せめて大田も同じように感じてくれていたら良いのだけれど。
「市村くん、ワックスの予定だけ立てたら今日はもう退けていいよ。ついでに明日も休むといい」
今日のシフトを眺めて声を掛けられて、改めて祐次も確認する。週末だが、閉店まで水上ともう二人の大学生が入っている。夜間もスタッフ内で都合がついたようでどのルートも埋まっている。明日のシフトも珍しく全て埋まっているからそう言ってくれたのだろう。但し、日曜の昼からは名前の入っていない箇所がぽつぽつとあるのだけれど。
「ありがとうございます。日曜日の昼から夜間終わりまで入ります。一件、急ぎのワックスがあるので夜間時間内に済ませます」
スーパー側にある写真店ならば一人でも十分可能な規模だと頷きながら、祐次が書き終えた申請書に大田も確認印を押してくれた。
それを持って席を立つと、十七時から出勤になっている大学生が明るい声と同時に入って来た。
モニタールーム前で中を窺うと、誠也の姿はなかった。自分のことは知られているのに自分は知らないなと気付き、そっと息を吐きながら、お先ですと挨拶をして自動ドアから外に出た。
今日は朝の曇り空から一転して快晴だった。日照時間が長いから、時刻的には夕方だけれど昼間のような眩しい青空に覆われている。
仰向けていた首を戻してほてほてと歩き始めて、そう言えば今日は車じゃなかったっけと足を止めた。従業員用の駐車場は、モールの敷地内とは別に道を挟んだ場所にある。祐次のアパートとは正反対の方向だから、歩きの今日はそちらを通るだけでも大回りの遠回りだ。何しろ店舗の外縁を歩くだけでも二十分ほど要するのだから。
戻って反対から帰ろうと踵を返したとき、名前を呼ばれて弾かれたように顔を上げた。
「木村さん」
背後から大股に歩いてくるのは、職務中らしき誠也だった。休憩時間には制帽を脱いでいるからそれで見分けがつく。
「暑くなってきましたね。何処かへ移動中ですか」
僕は見回り中です、と付け足して、僅かに歯を見せて笑う誠也を見て、祐次は胸が締め付けられるように感じた。
昨晩の件、まだ引き摺っているのかな。大丈夫、怒っていたりはしなさそう。
「急に休みがもらえたんです。これからと、明日丸一日」
「ほんとですか」
驚いて、でも嬉しそうに微笑み掛けてくれる爽やかな笑顔が眩しすぎる。
「あの、木村さんは、明日は……」
良かったら今度こそ食事でもと、作業着の胸元を握り締めた。
「明日は朝からなので、飲みに行きませんか」
首を傾げて、目を細めて即答される。
「飲みに」
驚きすぎて、鸚鵡返しに声を上げる祐次を見て、もしかして下戸ですかと尋ねられる。
ブンブンと首を振って人並みに飲めると伝えると、取り敢えず歩きましょうと促された。
そう言えば、職務中だった。反対回りになるけれど、誠也とならば遠回りで良いと何も言わずに頷いて隣に並んだ。
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