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深夜の暴漢

   第二部 Endless Happiness  灯りが点いていない。  市村祐次(いちむらゆうじ)は、台車と共に足を止めて前方を見据えた。  深夜作業の際には申請をしている筈なのに、空調の止まったショッピングモール内でもそこは特別ねっとりした闇に塗り潰されている。  このレストランエリアは早朝スタッフの管轄になっていて、夜間のスタッフはやってこない。定時になれば照明が全て落とされてしまうのだ。  一応小ぶりの投光機は持ってきているが、これだけでは心許ない。仕方ない、手間だけれど警備室まで行って点けてもらおう。  そこに居るはずの、最近付き合い始めたばかりの恋人の顔を思い出して口元を緩めると、祐次は清掃機械と道具一式を通路に置いて踵を返そうとした。  ゴッ。何かがぶつかる音がして、祐次は動きを止めた。少なくとも自分が立てた音ではない。では、一体何処から。  閉店後の通常清掃作業が行われている館内で動いているのは、自分の会社のスタッフ十名ほどと常駐の警備員二名のみである。その筈、だった。  バックヤードの特定の出入り口を除けば施錠も済んでおり、警備員も今現在はモニタールームで館内全体のチェックをしている。  そんな中、今日は夜間のうちに客用の広いトイレのタイルを洗浄して、パウダールームにはワックスを塗布しなければならない。その作業のために事前に閉店後も灯りを落とさないようにと連絡しておいたのに。  音はもう聞こえてこない。けれど気になる。もしかしたら子供がかくれんぼでもしていて帰りそびれたのかもしれない。最近は自転車で小学生が夜中にうろついていても声を掛ける大人が少なくなり、いつまでも帰ろうとしない未成年の対応には警備の連中も困っていた。  電気を点けてもらうついでに恋人である木村誠也(きむらせいや)に付いて来てもらって確認しようかと思ったとき、再び音がした。今度は足音のようだ。本当に誰かがあの真っ暗なトイレ内にいるらしい。しかも出所からして一番手前の女性用トイレだ。  もしかしたら具合が悪くて篭っていて帰りそびれたのかも。  そう思い付くと居ても立ってもいられず、祐次は入り口に投光機を引っ張っていきコンセントを差し込んだ。 「すみません、失礼します。どなたかいらっしゃいますか」  洗面台のついているパウダールームは、ベビーベッドなどの他に設置物が少なく死角もないから良く見通せる。人気がないのを確認してから、投光機を奥に並んだ個室側へと向けた。  思い切って一度プラグを抜いてから奥まで行って差し替えればよいのだが、その移動の間真っ暗で足元も何も見えない。こちらからあちらへの入り口は狭く、廊下に比べてほんのりとでも光が届かないのでコンセントの位置すら把握できないだろう。  けれど祐次の呼び掛けに応える声はなく、ここからでは何も見えないから仕方ない。足元に注意しながら、壁に片手を当てつつ、そうっと個室の並びへと体を入れた。左右へと長く伸びている通路を挟んで両側に個室が並んでいる。最奥の車椅子対応のトイレ以外は開き戸が内側に開いているのがかろうじて確認できた。 「あの、どなたもいらっしゃらないです……?」  本当に先刻の音は聞き間違いかもしれないと思いながら、それでもドアの陰に誰かがいないか一つずつ開けて確認していく。奥のトイレのバーを握ってスライドさせた瞬間、中から出てきた何者かに脚を払われて、祐次は尻餅をついた。  躊躇なく圧し掛かってきた体から放たれるすえた体臭が鼻につく。  ホームレス、という言葉が脳裏に浮かんだ時には完全にマウントポジションを取られて祐次は床に縫いつけられてしまっていた。 「あ、あの、閉店後は」  どうにか外に誘導しないとと声を上げた時、がつんと衝撃を感じた。頬を拳で殴られたと認識するより先に噛んでしまった舌から滲み出した鉄錆の味が口中に溢れた。 「なんで女子トイレに男がくんだよ」  地を這うような下種な声が耳に届き、何か答えようとした襟を掴まれて頭を床に叩き付けられた。  目の前がハレーションを起こしている。  唾液と一緒になった血が気管に入り、げふげふと祐次は噎せた。しかし、その行為すら男の感情を逆なでしたようで、腹の上に載っている膝を立てて、ぐうっと体重を掛けられる。  元々身長が百六十五センチで、いかにも必要最低限の筋肉しかなくほっそりしている祐次は、小太りで自分より二十キロはウエイトの有りそうな人間にそうされると為すすべもない。  呼吸も出来ない上に内臓を圧迫されて、込み上げてくる嘔吐感に苛まれつつ、更にそれを上回る激痛に弱々しく足をばたつかせた。  灯りが届かないため、互いの容貌は見えないまま、それでも声で祐次を男と認識している暴漢は、ひひひと喉の奥で掠れた笑いを漏らしながら祐次の髪を掴んで上半身を引き上げた。  意図してはいなかったろうが、それによりようやく気道が確保された祐次はひゅうひゅうと酸素を求めて喘ぐ。まだ気管に水分が残っているためか、満足に呼吸すら出来ず、焦点が合っていない。  それも見えていないから相手には伝わらず、ただ抵抗の止んだ祐次の体を跨いだまま、ぶつぶつと呟き、汚れた作業着のような着衣を膝まで下げると、祐次の顔を自らの股間に押し付けた。  汗の匂い、発酵したような体臭に混じり、男性独特の生臭さと共に少し芯の入った部分を唇に押し付けられて、咄嗟に祐次は首を振った。  冗談じゃない、まだ最愛の人のその場所すら、愛撫したことがないのに。いつかする筈の行為は、愛があるから出来ることだ。見ず知らずの男のものなど、視界に入れたくもない。 「口なら男でも一緒だもんなあ」  気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。  ただそれだけが脳内を占めて、ふるふると弱く首を振り続ける祐次の鼻を摘まみ、酸素不足に負けて口を開けたところに捻じ込まれた。 「おら、舌使えよ」  咄嗟に噛もうとしたが、いち早く動きを察知して顎を掴まれて、万力のような手で締め上げられる。舌を動かすどころではない。痛みと呼吸困難で朦朧となっているところに焦れた男がぐいを腰を突き出した。喉の奥までものが侵入し、唇と頬に男の下腹が当たり、鼻が潰れて更に呼吸不全になる。  その時、唐突にトイレ内の蛍光灯が灯り、男は腰を引いて辺りを見回しながら耳を済ませた。従業員用ではないトイレは、いくら節電の世の中とはいえ誰もが勝手にスイッチを触れるようにはなっていない。警備室からコントロールするようになっているのだ。  それを知らない男は誰かが入って来たのかと慌てたのだが、人気のないままであることに気付くと、大きく息をついてそのまま祐次の髪を掴み引き摺って一番広い個室内に入って鍵を締めた。  明るいところで見ると、自分が与えた暴力により酷い顔になってはいるが、ほっそりした面に華奢な体つきの青年だった。ぐったりと目を閉じて、空気が抜けるようなひゅうひゅうと細い息を吐いている。これなら十分に女の代用になるとごくりと唾を飲み、祐次のベルトに手を掛けた。

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