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捕物の果てに

 ぬかった。なんて失態だ。書類を申し送りしなかった昼番のスタッフにも腹が立ったが、今の今までその書類の存在に気付かずにいた自分自身にも腹が立つ。  白地に紺と赤の装飾を施してある制帽を被りスイングドアを抜けてレストランコートに速足で向かいながら、誠也は舌打ちした。  催促に来なかったということは、懐中電灯や何か代わりになるもので手元を照らしながら作業しているのだろう恋人のことを案じ、今にも駆け出しそうな足を諌めて、防犯カメラの映像を眺めている筈の同僚に変に思われない程度の速度で作業場所に向かうと、通路に様々な道具が放置されたままになっている。  まずは除塵からだから物音がしないのかとひょいと一番近くの女性用のトイレを覗くと、床置きタイプの投光機がパウダールームから奥を照らしていた。 「祐次? 遅くなってゴメンな。暗いところで……」  他に従業員がいないのも知っていたから、砕けた調子で話し掛けながら投光機のスイッチに手を伸ばし、ようやく何かおかしいことに気付く。  電気が点いてから自分がここに到着するまで数分掛かっている。その間に少しくらい手間でもスイッチを切るのが普通ではないのか。それに何も音がしないのと答えがないのも気になった。 「祐次?」  少し前、過労で作業中に倒れたことを思い出し、もしや今日もまたと血の気を引かせて個室の並びへと向かう。その時、バタンと音がして飛び出してきたグレーの塊が誠也にタックルするように横を擦り抜けた。  あっと思ったときには、その腕を掴んでいた。誠也より上背はないがなかなかがっしりした体格である。不審者は強引に誠也の腕を振り解くと、モールの廊下へと駆け出した。 「小野! 不審者だ! サポートしろ」  耳に引っ掛けているインカムを指で弄って鋭く叫ぶと、恋人の顔を思いながらも男の後を追っていた。  閉店後のショッピングモールは、長い通路のあちらこちらに防火シャッターが降りて開放空間ではなくなる。今夜は作業のためメイン通路への接続部分のシャッターは上がったままで、そちらへ行ったと見当をつけて足を向けると、インカムから「E出口だ」と小野の声が入る。  外へと通じる出入り口には全てシャッターが降りている。バカなやつめと思いながら、誠也は疾走した。  追い付いた誠也と格闘になったのを確認してから警備室を出た小野が合流した時には、男は後ろ手に捻り上げられて床に膝を突き大人しくなっていた。  警備員は全員武道の心得があり、就職後も定期的日常的な訓練を義務付けられている。全ては客と従業員をこのような不心得者から守るためだ。  まるで警察さながらに腰紐を巻いて改めて拘束すると、誠也はレストランコートに戻ると小野に声を掛けた。 「居る筈のスタッフが見えなかったんだ」  心配そうな声を聞いて、汚れた春コートの下に作業着姿の男が初めて顔を上げた。目を爛々と光らせて、涎でも垂らしそうにげひげひと笑っている。 「な、なんだお前──まさか、何かしていたのか」  自分を痛めつけ拘束した誠也を驚かせることが出来たのが嬉しいのか、男は哄笑した。 「なんだ? ああそうか、あそこにゃ防犯カメラつけらんねえもんな! わしが何やってたのかも知らんかったんだ。ご愁傷様だな!」  ぎゃはははと上向いて笑う男を、小野も顔を歪めて見つめた。 「ああ、何も知らずに入ってきたちっこいのを散々泣かせて楽しんでたのさ。もしかしたらもう息が止まってるかも知んねえけどな!」  顔を凍りつかせた誠也の膝蹴りが腹部に入り、男はくぐもった悲鳴を上げた。  続けて拳を入れようとしたところを小野が手首を掴んで押し留めた。 「やめろ! 過剰防衛になる」  誠也は氷の彫像のような冷たさで男を睨み付け、怒りで震えながらも手を引いた。 「この下種が……!」  向かう先のない怒りを胸の奥に押し込めて、どん、と男の背を押して歩くように促す。 「木村、後は俺が」  気になって仕方ないだろうにマニュアル通りまずはバックヤードに連れて戻ろうとする誠也に、小野が声を掛けた。ここから先は引き摺ってでも自分が連れて行くからと。  休憩時間に楽しそうに祐次と話しているのを知っているからこその気遣いだった。男の言葉を信じるならば、祐次だって一刻を争う状態なのに違いないのだ。 「頼む」  一瞬目を合わせてから、弾かれたように誠也は駆け出していた。  距離が短かったせいもあり、あっという間に元のトイレに戻ると、先程確認しそびれた奥へと足を向けた。  物音一つ、気配すら感じられないのが焦燥感を煽る。  狭い通路の奥に半分開いた引き戸があり、床の上に薄いブルーの塊が見えた。祐次の作業着の色だ。近付くとそのブルーに生々しい鮮やかな赤が散っているのが網膜に焼きつき、その脇に膝を突いて、自分が叫ばないことが不思議だと思った。  血の気のない白い顔を仰向けると、床を汚す赤が口の中から出たものだと知った。降りたままの目蓋。力なくだらりと垂れ下がる四肢。そして下半身の衣類が下げられて、臀部から太腿が鮮血に汚れていた。 「ゆうっ、祐次ッ」  抱き上げて耳元で呼んでも、答えはない。吐息すら漏らさない口を指で押し開けると、喉の奥に血溜まりが見えて、誠也は躊躇なく口を合わせてそれを吸い上げた。  便器の蓋を上げて、吸い出してはそこに吐き出す。数回繰り返してから、今度はそっと床に横たえて気道を確保して人工呼吸を施した。  まだ、まだだ……。祐次。俺たちは、始まったばかりだろう?  思いを告げてから擦れ違った一ヶ月。こんなに好きなのに苦しめて泣かせて、そうしてようやく互いにずっと惹かれていたのだと確信した。  そこからまた以前のように話をするようになり、数回食事をしただけで。まだ何一つ恋人らしいことなど出来ていない。  頼むから、いくら待ってもいいから。ずっと待つから!  俺を置いて行くな──。  けっ、と微かに声が漏れて、横向きになった祐次がこぷりと血液交じりの唾液を吐き出した。  弱々しく咳き込むその背を支えていると、少しずつ咳と一緒に吐き続けて、ようやく細くではあるけれど呼吸を始める。それを見守りながら、我に返りインカムで救急車の要請をした。他人ならば一番にしたはずなのに、かなり動転していたようだ。  目蓋は閉じたままだから意識はないのかもしれない。いや、今はない方が精神的に良いだろうとすら思う。  誠也はトイレットペーパーで簡単に祐次の体を拭うと、服装を整えてから状況証拠のために持ち歩いているデジタルカメラで数枚写真を撮った。  いくら警備の仕事をしていても、強姦の現場は初めてだ。まして自分の最愛の人が被害者ならば。  あまりにも痛々しい祐次をこれ以上苦しめないように、最大の注意を払って抱き上げた。  救護室に着いてから救急隊員が到着するまでの十分間、誠也は祐次の手を握って名前を呼び続けた。  血の気がないくせに脂汗を浮かべ始めた額をハンカチで拭い、痛そうに呻きながらも寝返りすら打てないようで、ただ苦しげに細く荒い呼吸を続けている。  パッと見た感じ、下半身以外は顔を殴られたような痕跡しか認められないけれど、まさかレイプ以外にも何か暴行を受けているのだろうか。  それだけでこんなに苦しそうになるなんて訳が判らない。  小野が祐次の上司である大田には連絡済みなのを良い事に、自分の仕事は放り出して、目の前で苦しむ祐次を見守ることしか出来ない痛み。警察にも連絡済みで、そちらは派出所が近いから取り敢えずはそこの警官がすっとんでやって来た。  誠也にも状況説明を求められているが、もう少しだけ待ってくれと、その間防犯カメラの映像などで小野が繋いでくれている。  救急車への同乗も出来ない。仕事を最優先せねばならないのだから当然だが、自分は祐次にとって身内でもなんでもないのだと思い知らされた。

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