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記憶の欠如

 泊まっていけばとの勧めは固辞し、「家族だけの時間も必要でしょうから」と夕飯だけ頂いて、誠也は一人でホテルに向かった。同じ市内だからすぐに着く。  断った際に「もう家族なんだろう」と父親が言ってくれた時、泣きたくなるほどに嬉しかった。  それでも、ずっと離れ離れだった家族が一堂に会する機会を奪いたくなくて、また自分が居ると話せないこともあるかと席を外したのだ。  その頃、誠也の去ったリビングを片付けてビールや日本酒で銘々に酌をしながら、市村家のメンバーは和やかなひと時を過ごしていた。 「あー、俺なんか感動しちゃったよ。嫁さん貰う時にあんな風にかっこ良く挨拶出来るのかなあ」  膝を立てて後ろにそっくり返るようにしながら、カーペットに座っている祐一がぼやく。 「祐くんには無理かも~。テンパっておろおろしっぱなしじゃない?」  祐香が誠也の持参したパウンドケーキに舌鼓を打ちながら茶化すと、 「兄貴は落ち着いてにこにこしてると思うけどなあ、おれ」  と、祐次が取り成す。  アルコールは控えてといわれているので、蕎麦茶を啜っていた。  父親は黙って常温の日本酒を手酌で猪口に注ぎ、その隣では母親が餡を薄皮で包んだ和菓子を口にして「あら美味しい」と口元を押さえた。 「誠也さんがお兄ちゃんかあ。確かにいいよね! それなら友達にも自慢できる! 恋人は内緒でもさ、祐ちゃんの親友って言ったら絶対羨ましがられる」  すっかりその気になっている祐香は、その時のことを想像して一人悦に入ってにやけっぱなしで、「わざわざ広めるなよ」と祐一に釘を刺されている。  それに「はいはい」と軽く答えると、祐香は足を伸ばして寛いでいる祐次の方へと身を乗り出した。 「でもさあ、恋人ってさ、祐ちゃんと誠也さんってぶっちゃけどこまで行ってるの? やっぱり最後までしちゃってる?」  祐次はぶふぉっとお茶を吹き出し、両親と兄の三人は身を硬くして青褪めた。  祐香だけに事実を知らせていないのが裏目に出てしまった。その口を閉じろと祐一が目で訴えても祐香に通じる筈もない。 「え? いいじゃん大人なんだし何してても」 「祐香ッ」  珍しく父親が声を荒げ、それでようやく祐香は口を閉じた。しかしそこまで険しい顔をされる理由が判らず不満げに家族を見回す。  強姦のことを知っていながら、その傷については触れてこなかったから、今きっと祐次はその傷を抉られているだろうと、そろそろと三人の視線が祐次に集まる。  すると祐次はかあっと頬を染めてぱちくりとそんな一堂を見回していた。 「ど、どこって、まあキスまで、だけど……ごめん、期待に添えなくて」 「ええー、ちょっと、誠也さんそれでいいの」  祐香は悲鳴を上げて祐次に詰め寄り、祐一はそれを制止できずに両親の顔を窺った。  父親も母親も、祐一と視線を交わしながら困惑している。  祐一も母親も、担当の医師から直接聞いている。顔の打撲、腹部を圧迫されて肝臓が破裂していること、肺の中に血液が入り気管が詰まって呼吸停止していたこと、そして性的暴行を受けて肛門と直腸が酷く傷付いていること。  年頃の娘に聞かせることではないと、その部分だけは伝えなかった。だから、祐次の精神的な傷まで慮れない祐香が軽々しく口にしてしまうのを止められなかった。  けれど。  三人には解ったのだ。今この祐次は、傷を取り繕ったり乗り越えたりしているのではない。忘れているのだ。  記憶の欠如──それが今、ひとつだけとはいえ、ようやく明らかになったのだった。  うとうとし始めた祐次を二階に運び、祐一は両親とも話し合った後に誠也に電話を掛けた。 『はい。何かありましたか?』  団欒を楽しんでいる筈の祐一からの電話に、誠也は少し不安になっているようだった。  これから更に不安にさせるようなことを言うのが申し訳ないなと思ってしまう。 「誠也くん」  初めて名前で呼ばれて、空気で誠也が居住まいを正すのが感じられた。 「祐次はね、あの時のこと、目に見える傷しか判っていないようだよ」 『え?』 「つまりね、自分がどう扱われたのかを憶えていないんだ」  実はそれは、警察の事情聴取の際にもなんとなく判っていた事ではあった。ただ、その時はその事実だけは表沙汰にしないつもりで、本人も暴行のことだけを明らかにしたいのかと思っていたのだ。体調が思わしくないのもあり、長くは話していない。突っ込んだ質問も、医師から止められていた。  だからそれぞれが勝手に解釈して納得していたのだ。その時点ではまさか丸まる忘れてしまったなどと思いも及ばなかった。  それ自体は別に構わない。  忘却によって楽になれるなら、それでいいと思う。誰もが手放したい過去なら持っているだろうから。  だが、祐次は違う。誠也が居る。  先程祐次自身が言っていた様に、これまでキスだけで済ませていた関係でも、ふたりはそのままでは居られないだろう。  そうして、先に進もうとして、その時に傷付くのは。  祐次は勿論だが、その時誠也は耐えられるのだろうか、それとも先に進まないという選択肢を取るのだろうか。  そうですか、と囁くように答えるまで、間があった。その間に色々と思うところはあったと思う。 「誠也くん、本当に無理なときが来ても、俺はきみを責めたりなんかしないよ。本当なら祐次が一人で乗り越えないといけない傷だ。きみひとりに責任を負わせたりしないから。ああは言っていたけど、おふくろだってそれは解っているから」  いいんです、と誠也が遮った。 『俺が選んだ道です。もしも弱音を吐きたくなったら、また電話してもいいですか』  いくらでも聞くよ、と祐一が柔らかく答えて、どちらからともなく「おやすみなさい」と終了ボタンを押していた。

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