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第二章 再会 ④

 なんだろ、この気持ちは。なんかあったかい……。僕が気になってるのは室川先輩だよね? うん、そうだ、そうだ、間違いない。ニックは確かに優しいし情熱的だし大人としてかっこいいし、体も大きくて逞しくて……ちがうでしょ、そうじゃない……っ。  そう思っているのに、抱きしめられたときの感触が今になって急に蘇り、純己はなんだか体の中心が熱くなるのを感じた。  僕に出会ったから過去がどうでもよくなった、って……。そこまでの価値が自分にあるなんて信じられなかったし、初めて言われた。ニックからは初めて言われることが多くて戸惑ってばかりだ。  え……なんで……。なんでまた抱きしめられたいって思ってるの……。やだよ、あっ。  純己の大事なところが固くなってきた。ちょっと待ってよ……。お願い……今はやめて。  ぱっと見で分かるほど膨らむモノを持っていないからかばんで隠せば充分だけど……。  さっきからニックがちらちらとこちらを見ているが、ここはかばんで見えていないから大丈夫のはず。なんでそんなに見るんだろう。 「……なん、ですか?」  ニックにそう聞くと、ニックは動揺し始めた。 「あ、いや、その、サイドミラー、追い越し車線に入れるかなって」 「あっ、そうですか、すみません……」 「謝る必要なんてないよ」  ニックは右のサイドミラーを見ていたのだ。純己は自分の勘違いで余計に顔が熱くなった。  しばらく走った後、繁華街の裏手にあるパーキングに車は停められた。  車を降りてドアを閉めたとき、ニックはすでに車の前で待ってくれていた。ニックが先に歩き始めると、おもむろにニックの後ろ姿が目に入る。  よく見るとニックの背中ってこんなに広いんだ……同じ性別の人間だとは思えない……。  通りで抱きしめられるとあんなに心地がいいんだ……あ、ダメじゃん、こんなこと考えたら……。なんか今日は変だ……。こういう目で人のこと見るなんて失礼だし……。 「ぅ、あっ!」  純己はパーキングであることを忘れて車停めの機械に足を取られた。すっと逞しい腕が伸びてきて純己を抱き抱えてくれた。 「あ、ありがとう」 「大丈夫か」 「う、うん」  体勢を整えるとニックの腕は純己の背中からゆっくりと抜かれた。自分が人形になったように思えるほど、ニックの腕にほとんどの体重を支えられていたことが分かった。  ニックってやっぱり見た目通り力も強いんだ……。な、なんで……こんなに胸がドキドキするんだろう。こけそうになったからだよね、そうだ、絶対にそうだ……。  青色の壁に黄色の窓枠、白いドアにはピンク色のハートマークの取っ手が付いていた。まるでおとぎの国に迷い込んだようなカフェだった。 「確かに可愛いカフェですね、ここ」 「だろ? 俺が入り辛い気持ち分かるだろ?」 「ふふっ、ええまあ」 「でもスイーツは評判で、同僚からも美味しいって聞いていて興味はあった」  何気ない会話で笑い合うことがニックとの距離を縮めている気がした。  店内はやはり女性客が多かった。若い女性店員はニックを見て一瞬顔を強張らせたが、純己の方を見ると急に笑顔になった。ニックは、ほらね、という仕草をして見せた。  旬のフルーツがふんだんに盛られたパンケーキとカフェオレが運ばれて来た。純己が美味しいと微笑むと、ニックも嬉しそうに笑った。 「気に入ってくれたかな、ここの味」 「はい、とても美味しいです」 「とてもって、今の若い人はめっちゃとも言うよね。元は関西地方の言葉らしいね」 「そうです。新しい日本語も覚えて下さいねっ」 「そうだね。でももう三十六だからなかなか付いていけないよ」 「えっ、ニックは若く見えますね。三十くらいかなって思ってました」 「またまた、お世辞がうまいね」 「いえ、本当です」  すると急にニックの表情からにこやかさが消えた。 「……年上は、その、あれだ、ど、どう思う?」  そう言うとニックはパンケーキの横に転がったフルーツをつつき始めた。 「どうって……」 「ああ、だから、何というか、タイプとして年上の人は、どう思うかって意味で、その」 「え……あ、僕は年上の人の方がむしろ好きです……」 「そうか! それは良かった!」  ニックは少し頬を染めながらパンケーキを豪快に切り始めた。きれいに盛られていたフルーツが生クリームを巻き込んでぼとぼととお皿に落ちることもお構いなしといった具合だった。その姿を見ていて、純己は年上の人なのに可愛い人だなと思ってしまった。 「うまい! なんてうまいんだここのパンケーキは!」  ニックは頬張りながら高笑いを始めた。純己は、ニックの急なハイテンションと周囲からの視線に戸惑いつつも、ニックの子供っぽい別の姿を見て胸がキュッと締め付けられた。 「……そう言えば、さっきの講師の方が、僕の行く大学とニックの英会話教室が提携したとかなんとか話していたような気がしたんですが」  ニックの動きが少し止まった。 「タケルがそんなことを? ああ、タケル・キシノという名前なんだあの講師は」  ニックはため息をつきながら続けた。 「余計なことを……」 「僕なんかがお仕事のこと聞いちゃいけなかったですかね、すみません」 「いや、そんなことはない。純己から初めて大学名を聞いたときはすでに提携の話は持ち上がっていたが、契約金額のライバル社とのコンペの問題もあって口外はできなかったんだ」 「そりゃそうですよね。ビジネスですもんね。なんかごめんなさい」  純己は踏み込んではいけない領域に入ったような気持ちになった。まだ高校生で無関係な自分が大人の事情に首を突っ込むような痛々しいことはしたくなかったし、ニックにそんなことで嫌われるのは嫌だった。  純己は慌ててパンケーキを口に運んだので生クリームのほとんどが唇に付いてしまった。いつもの癖で舌でペロっと唇を舐めまわした瞬間、ニックと目が合った。  ニックは苺のように頬を赤くしてなぜか茫然としていた。  いけない……はしたなかったかな、欧米ではこんなこと行儀悪いことだよね。  純己はすぐにナプキンで口元を拭い直した。  ニックはフォークを持ちながら大げさなくらいの深呼吸を繰り返してから、震える声で話題を変えた。  会話も一通り終わり店を出ようという頃合いになったので、純己はトイレに立った。用を足した後、鏡を見ながらフェイスシートで額と鼻の油を拭き取り、髪型と顔のバランスをチェックした。大丈夫だねと思ったとき、なんでこんなに見た目を意識している自分がいるのだろうと思った。あれ、もしかしてニックによく見られたいと思ってる……?  ニックは純己に好意を寄せてくれているけれど、育った環境も年齢も大きく異なっていて、恋愛に発展するなんて考えられないと頭では理解している。なのに、可愛いと思われたいと思っている自分が鏡に映っていた。  席に戻ると、ニックは待ち構えていたように、 「純己が大丈夫なら出ようか」  と声をかけてくれた。返事をしてレジまで歩くと、そこで店員がお辞儀をしていて、ニックは片手を上げて通過した。念のために純己は財布を出して店員に目配せすると、 「もうお連れ様にいただいております」  と言った。ニックの方を見ると、入口でドアを開いたまま待ってくれていた。 「純己、もう俺が払ってるからおいで」 「分かりました」  ドアを開けて待っていてくれたことにまずお礼を言ってから、純己は財布からお金を取り出そうとした。ニックはそそくさと歩き始めた。 「ニック、ちょっと待って、半分出します」  ニックは歩きながら体半分振り返った。 「純己に出させるなんてことは、永遠にないよ」  と言ってまた前を向いた。 「え、でも……なんか悪いよ」  ニックは無視するように何も答えなかった。純己は広くて分厚い背中を見つめながら、そろっと財布をかばんに戻した。その途端、甘く痺れるような感覚が胸の中で渦巻いた。その渦が動くたびに熱を生み出して、その熱が顔まで昇ってきた。  緊張のようで緊張そのものではなく、安心のようで不安にも似た気持ちが膨れた。  男の人に守ってもらうってこういうことなのかな。男の人に頼るってこういうことなのかな。駐車料金を機械で精算している背中にお礼を言いたいのに、言えなかった。  車に乗ったときに、やっと口を開くことができた。 「ごちそうさまです、ありがとう……嬉しかった」  ニックは鼻で笑った。 「オーバーだよ。大した金額でもないじゃないか」 「……いや金額じゃなくて、なんていうか、その、永遠って……」  ニックはエンジンをかけようとしていた手を止め、純己を見つめた。 「純己、俺の気持ちに嘘偽りは一切ない。それだけは言っておくよ。純己はまだ若い。だから俺は待つと決めている。その分、俺も歳を取ってしまうけどね」  ニックは自嘲的に短く笑った。純己はニックを見返すことができなかった。ただ黙って視線を落としていた。  エンジンがかけられ、車はゆっくり走り出した。

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