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第三章 温かい光 ①
ニックは、純己の気持ちがだんだん歩み寄ってきていることに手応えを感じていた。純己がニックの好意をちゃんと受け止めてくれたタイミングを逃さないで良かった。またちゃんと気持ちを伝えることができたからだ。
誠実に思っていることを真っ直ぐに伝えたい。年齢が若いから興味を持ったわけではないということを。顔も体つきもタイプなのは確かだ。でも純己の寂しそうな顔を笑顔に変えたい。純己が心から幸せだって感じることをしてあげたい。
そう思っている俺の気持ちを誰よりも深く知って欲しい。それで俺のものになって欲しい。
「純己、家まで送るよ」
「あ、うん、助かります」
純己はやっとこちらを向いてくれ、何気ない日常のことを話し始めた。目を細めながら話をする純己もやっぱり可愛かった。この純粋な笑顔を俺だけのものにしたい。
それにしてもタケルの奴、余計なことを言ってくれたもんだ。
春英外国語大学との業務提携のコンペでは、他社の方が契約金額を低く見積もっていた。うちでそれ以上低くすると赤字が出る金額であった。でも、どうしても純己のそばにいるために提携を勝ち取りたかった。なので赤字寸前の金額を提示したところ、運良く他社を下回ったのでお鉢が回ってきたのだ。
その作戦がバレたら純己にこれ以上ない心配と遠慮を抱かせてしまうじゃないか。
「そこ、そこを右です」
純己の誘導で道を進むとだんだん道幅が狭くなってきた。お世辞でも高級住宅街とは言えない雰囲気が広がった。
「この車大きいから入るかな、ちょっときついかも」
純己は首を傾げた。
「大丈夫、俺は上手いし、ゆっくり進むから」
「うん、ゆっくりお願いします。急いじゃうと傷ついちゃうし」
ギリギリの道幅を抜けると、解放されたように砂利の広場みたいな場所に出た。すぐ向こうには送電用の鉄塔がそびえ立っていた。
「あそこのアパートです」
砂利の広場の奥に二階建ての日本ではよくあるシンプルなアパートがあった。お世辞でも住みたいとは思えない住居だった。
……あんなところに純己は住んでいるのか。
「確か、お母さんと妹さんと三人なんだよね?」
純己はくすくす笑い始めた。敏感な純己は何かを感じ取ったようだった。
「そうだよ、びっくりしたでしょ? 一応ああ見えて3DKなんだよ」
三つも部屋が存在しているようには到底見えない。ニックは思わず首を横にゆっくり振っていた。
「信じられない?」
「あ、いや、すまない、そういう意味ではないよ」
「いいよ。うちギリギリなんだ。母がホームセンターの正社員で働いてるんだけど、僕も妹もほぼ毎日バイトしてやっとなんとかって感じで。家賃は安い方が助かるんだ」
「俺が聞くことではないかもしれないが、大学の学費は大丈夫なのか?」
「奨学金の審査が通ったから大丈夫です。しかも無利子のやつだから助かった。成績も評価されたみたいで、勉強頑張ってきて良かった」
ニックは、からっと話す純己を見つめた。いろいろと辛いだろうに、夕陽に照らされながら明るくつとめている純己を抱きしめたくなった。
「ありがとう。今日は楽しかったです」
微笑む純己を見ていると、このまま連れ去りたい衝動が走った。でもそれはできない。でもこのまま別れるとプライベートで会う機会はほぼゼロになってしまう……。
それでいいのか俺!
「よ、良かったら、ケケ、け、携帯番号を教えてくれないか? 頼むっ」
ニックは思わず純己の両手を握ってしまった。はっと気づいてまた手を離した。
「ご、ごめん、でも連絡先を教えて欲しいんだ!」
「う、うん、いいよ」
「できればメールアドレスもラインもだっ」
「い、いいよ、ラインは僕の番号で検索してくれたら出てくるから……」
純己も少し動揺している様子だった。無理もない。こちらの勢いに押されているのだろうけれど、ニックは落ち着いて話すことなんでできそうになかった。
スマホを持つ手が震えてちゃんと操作できなかったが、純己が代わりに操作してくれた。
これで純己がニックの懐に登録された。もう自分のものになったような気分になった。それではいけない。純己に嫌われてしまうじゃないか。
「今日は本当にありがとうございました」
「俺の方が誘ったんだしお礼なんて。付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ」
純己は微笑んで頷いた。その瞬間、純己の瞳が黄金色に輝いた。きれいで可愛い……。
シートベルトを外した純己の小さな背中がドアを開けようとしていた。なぜだかニックの胸は締め付けられた。
「ああっ、ァウ、そう、純己」
「ん?」
純己は振り向いた。
「……その、また、今日みたいに一緒に出掛けるっていうのはどうかな? 次はもっと、ほらなんだ、ちゃんとした食事でもって思って。今日のスイーツだけじゃなんだか申し訳ないっていうかなんていうか……」
ニックの息は荒くなっていた。純己は瞳を潤ませたまま瞬きをしていた。ニックは深呼吸をして息を整え、伝えたいことを頭の中でしっかりと組み立てた。
「今度は、今日みたいなついでじゃなくて、二人のためにちゃんと時間を作って俺とデートしてくれないか?」
ニックはつまることなくスムーズに言えた。本当に伝えたいときには腹が決まる自分を感じた。夕陽のあたる純己の頬はフラミンゴのような色に染まった。
「……はい……僕で良ければ」
と言って恥ずかしそうに視線を迷わせた。ニックは唸りながらハンドルを叩いてしまった。それを見た純己は声をこぼしながら笑ってくれた。
純己はドアを閉める間際にもお礼と「気を付けて帰ってね」と言ってくれた。方向転換して窓を開けて手を振った。バックミラーにはオレンジ色の中で見送り続けてくれている純己が映っていた。唇を奪っておけば良かったか、いや、だめだ馬鹿野郎。
ゆっくり離れるこのスピードが逆にもどかしかった。道幅に邪魔をされて寂しさを抜く時間をじらされてしまう。純己が大人になる時間を待つように、ニックのアクセルも急には踏み込むことができなかった。
ハイウエイに乗るとやっと冷静に考えることができるようになった。それにしても純己の生活レベルが気の毒で仕方がなかった。できれば俺が純己の生活レベルを変えてやりたい。でもそれは余計なお世話だろうか。傲慢で無責任だろうか。お金だけを差し出すならそういうことになるだろう。
でもパートナーになれば一緒に生活をするということになる。ということはいわゆる夫婦か同棲する恋人になるということだ。ということは毎日同じ屋根の下で生活し、一緒にベッドで寝ることになる……。俺の腕枕で純己を引き寄せ、キスをして、衣服の中に手を入れて……。
うっ、やっぱりきたか下半身め。でも今ならどうとでもしてくれ。あいにく車の中で俺一人なんでね。状況が俺の味方をしてくれている。いくらでも膨らめばいい。横でもあさってでもどこを向いてくれてもいい。俺はお前を無視して純己のことだけを考えられる場所にいるのさ。
フロントガラスの向こうの夕陽の中に、純己の笑顔が浮かんでくる。
ああ、もう純己に会いたいや……。ニックはそう思いながらアクセルを踏み込んだ。
◇◇
純己は鍵を開けてそっと家の中に入った。やはり母親の典子も妹の美菜もいないようだった。洗面台の鏡で自分を見た。純己の背後に夕陽が台所の窓から斜めに射しているのが見えた。シトラスの匂いが漂いそうな光が一色だけの虹みたいに見えた。
さっきのって、あれだよね……。恋愛の始まりってやつだよね……。僕のこと好きだって言ってくれてるんだよね……。
ニックみたいな立派な大人が純己のことをそんな風に思ってくれているなんて信じられなかった。確かニックはあの英会話教室でも割と偉い立場だと言っていた。部長とか課長とかかな。
そんな人が高校生でまだ何者でもなくて何も持っていない純己に魅力を感じるなんて思えなかった。もしかして、カラダ……? それならあり得る。若いってだけでカラダに価値と肉欲を感じる年上の男性はいくらでもいる。
だけどニックに関しては決してそうは思えなかった。純己を見るときの揺るがない瞳がちゃんとそれを教えてくれていた。
じゃ何……。この顔? 確かに悪くないとは思う。老若男女を問わず可愛いと言われる。ニックも可愛い顔をずっと見ていたいって言ってくれていた。だからといって僕くらいの顔なら、いくらでもいるはず。じゃ、ニックを他の人に渡してもいいの?
それは嫌だ。あんなに熱を帯びた声で気持ちを伝えてくれる男性はニックしかいない。僕のことをちゃんと恋愛対象として見てくれる男の人に初めて会ったんだから。
そのときラインの着信音が鳴った。純己は急いでかばんからスマホを取り出した。ニックからだった。コンビニでコーヒーを買ってるところだよ、今日はありがとう、のメッセージとともにコーヒーの画像も付いていた。純己もすぐに返事をしようと思った。何か画像を付けよう。
台所の窓から射す夕陽を写真に収めてニックに送った。ニックからは即座に親指を立てた可愛いスタンプが返ってきた。純己の口角が上がった。
そして画面を一つ戻ったときに前までよく見ていたアイコンが目に入った。
あっ……室川先輩のこと忘れてた。なんか、不思議だな……。あんなに恋焦がれていた人だったのに、今の純己にとってはラインの中の一つのアイコンに過ぎない存在になっていた。
既読の文字は、既読としか読めない。あんなに濃く残っていた疑問符も消えていて、逆にピリオドが打たれているような気がした。
僕はただ、自分が男性から恋愛対象として見られているのかどうかを確かめたかっただけなのかもしれない。その役目を僕の中で室川先輩に押し付けていただけなのかもしれない。
まいっか。室川先輩も幸せになってね。僕も、もしかすると幸せになれるかもしれません。
純己はスマホを置いて手を洗ってうがいをしてから鏡の中の自分に微笑みかけた。
洗濯物を取り込んで畳み、お米を洗って炊飯器をセットし、お風呂を洗い手足を拭いているとドアが開く音が聞こえた。見ると母の典子と妹の美菜が玄関に立っていた。
「純己、帰ってたんだ」
「うん、あれ、二人で出かけてたの?」
「そうだよ、今日は美菜と一緒に晩ご飯作ろうって、ね」
「ねーっ。今日はお兄ちゃんの好きなチーズインハンバーグだよ」
「マジで? やったーって、二人とも仲直りしたんだ」
「まあねー。お母さん、私が今日はこねこねするね」
二人が洗面台で順番に手を洗い始めた。
「そう言えば、あんた今日の体験講座どうだったの?」
典子が手をタオルで拭きながら聞いてきた。
「え、う、うん、すっごく良かった……。いろんな出会いもあったし、あっそうだ、ラジオ番組に出ることになったんだー。しかもお金もらえる」
「ええーっ、なにそれっ、お兄ちゃんすごいじゃん。誰に声かけられたの?」
「タケル・キシノさんっていう有名な人で、テレビにも出てる人なんだって」
「聞いたことあるーその名前」
「なんで純己がそこに出ることになったわけ?」
「うーんっと、たまたま当てられたんだよ、講義中に。それで僕の英語が認められたの」
「たまたま? それでラジオに?」
純己はスーパーの袋をまさぐりながら詳細は誤魔化すことにした。
「まあ、いろいろ。打ち合わせしてからじゃないと僕もまだ分かんないし。で、とろけるチーズは? 冷蔵庫にはなかったと思うけど」
「あっ買うの忘れたー。チーズインできないじゃん、もう」
美菜の顔が歪んだ。
「僕買ってくる。チャリ飛ばせばすぐだし」
「純己がそうしてくれると助かる。じゃ、お金渡す。その間に準備しとくから」
純己は典子からお金を受け取ってアパートを出た。すっかり夜になっていた。外階段を下りようとしたとき、頭上から降ってくる光に気付いた。見上げると、大きくて熟したような満月が出ていた。指でつついたら中から溶けたチーズがこぼれてきそうだった。
ニック。僕はあなたの言葉を信じてもいいですか? あなたが本当に愛してくれるなら、僕もあなたを愛するかもです。それに、あなたのお陰でみんなに優しくできそうです。今度のデート楽しみにしてます。年齢なんて気にしなくていいですよ。よろしくです。
純己は、とろけそうな体の芯に力を入れて、月明りの道を立ち漕ぎで走り出した。
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