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第三章 温かい光 ④
やっとタケルが教室に戻って来た。打ち合わせが始まって少ししてからニックも戻って来た。
複合機の調子が悪かったのかな。それか急な電話対応でもしていたのかな。
純己はそう考えながらも、何となく二人の顔が暗かったのが気になった。
プロジェクターを使って日程確認が始まった。収録の大半は三月中に行われるらしく、四月や五月にも少しだけ収録の予定があった。大学が始まっても夜や週末なら大丈夫そうだ。
タケルが番組で使われる台本の話を始めた。ビジネスコーナーでは学生の考えを発信することになった。そこで台本に落とし込むために、宿題として外国語学習を日本でビジネスとして成功させるにはまず学生の意識をどう変えるべきか、というお題が出された。
「私、ぜひ経営者であるニック・スチュアートさんのご意見が聞きたいです」
女子学生の一人がそう言い始めた。純己は一瞬聞き間違えたのかと思い、聞き返した。
「経営者?」
「うん、え、小田君、知らなかったの?」
ニックの方を見ると、ニックは頬を少し引きつらせ心配そうな表情で純己を見返した。なぜかタケルがくすくす笑い始めた。
ニックが経営者……。嘘でしょ、だって割と偉い立場だって言ってたし。経営者なら割とじゃなくてトップってことになるじゃん……。それに一言もそんなこと言わなかった。
タケルが促すと、ニックは咳払いを一つして話を始めた。確かに経営者らしい観点で、マーケティングや損益を考えながら進めるという角度だった。
え……本当なんだ、経営者って。でも、知らなかった自分が馬鹿だよね。ニックにはニックの事情があるんだし、僕に言う必要もないしね。なんでネットで調べなかったんだろう。
純己には元々何かをすぐに検索するという習慣はなかった。それにニックの言葉を疑うことに考えが巡らなかったというのもある。
純己の中では裏切られたなんて感情はなく、むしろ誇らしい思いがしていた。経営者の人に好きになってもらったんだと思うと申し訳ないような、くすぐったいような気持ちがした。
ニックは企業のトップなのに、少年っぽいところがあって、誠実で、真っすぐで、優しい。こんな人と出会えて気に入ってもらったのだとすれば、それは純己にとっては奇跡に近い出会いだったのだという思いがした。
それと同時に、自分なんかでいいんだろうか、という思いがふつふつと湧いてくる。
薄暗くなった部屋に目も慣れてきた頃、そっとニックの方を見ると、ニックもこちらを見ていた。はっとしたが、周りの学生たちはタケルが説明するパワーポイントの画面に見入っていて気付いていない。しばらくニックと見つめ合った。
ニックはどう思っているんだろう。もしかして後で驚かそうとしていて黙っていたのだろうか。それとも気恥ずかしくて言い出せなかったのだろうか。もしそうならニックらしい。
純己はニックにだけ分かるように微かに微笑んだ。するとニックは待ち切れなかったように顔を崩してしまった。
だめだよ、バレちゃうよ……っ。
ニックの笑顔にはどう思われてもいいと書かれているような気がした。
打ち合わせが終了して他の学生たちは帰り支度を始めた。
「純己、ちょっと残ってくれないか」
ニックが事務的な言い方で話しかけてきた。
「あ、はい、ただタケルさんに提出する書類が一つあるのでそれを先にしてもいいですか?」
と純己が聞き返すと、ニックより先にタケルが口を開いた。
「純己君、その書類は後日メールで送ってくれたらいいよ。俺はこの後、人と会う約束があって先に出るので」
タケルはそう言って純己に微笑みかけ、片付け始めた。
「タケル、お疲れ様。プロジェクターの後片付けは俺がしとくから」
「そうしてくれると助かる。じゃ、みんな、これから頑張ろうぜ、よろしく!」
タケルの掛け声に学生たちも口々に返事をして、みんな帰途についた。
教室にはニックと純己の二人が残った。事務室にも他の部屋にも誰もいない状態になってしまった。純己は緊張を和らげるためにも機材の片づけを手伝うことにした。
「ありがとう、純己」
「とんでもないです、これくらい」
「……さあて、どこから話そうか」
ニックはそう言いながら教室のドアを閉めた。パタンとドアが鳴った後の部屋はさっきよりも空気が温かくなった気がした。ニックは純己に近づいて来た。純己の鼓動が早くなった。
「え……あの、経営者だったってこと?」
「そうだ」
純己が思わず後ずさりしようとしたときニックは純己のすぐ近くの机に腰かけた。ニックの長くてしっかりした脚は純己を閉じ込めるように広げられた。体温を感じられる近さで、ニックの股の間に純己が立つ格好になり、目線の高さがかろうじて同じになった。
じっと見つめられることが恥ずかしくて純己は視線を少しだけ外した。
「謝れば許してくれるかい、それとも、他に何かご要望があれば何でも聞くけど」
「え、いや、僕は別に何も、その……」
ニックの顔が近づいてきたかと思うと、大きな手が純己の細い腰を優しく引き寄せた。
「ぁ……」
腰がいっぺんに温かくなった。その熱に酔いしれる間もなく、ニックの大きくて温かい指が純己の顎を柔らかく掴んだ。
「なんて可愛い表情をするんだ……」
純己の頬が熱くなり、体の中心がじんじんし始めた。
「可愛いを通り越えて、美しい……」
「そんな、こと……ない、です」
ニックは角度を変えて純己の顔を舐めるように眺め、真正面に来たときに顎が甘く解放され、真剣な眼差しが向けられた。
「ずっと考えてた。俺の気持ちをどう純己に伝えようかって。経営者だってことは隠すつもりなんてなかった。ネットにも溢れている情報だ。そんなことより、どうしたら純己を俺だけのものにできるのかをずっと考えてた」
「……ニック……」
「それでようやく分かったんだ。そのまま伝えればいいだけだってね」
「……ぇ……」
「純己、初めて会った日からずっと好きだった。俺と付き合って欲しい。絶対に幸せにする」
純己の胸の中に熱とともに安心が生まれた。やっと本当の呼吸ができる気がした。でもその一方で自分なんかがニックと釣り合いが取れているのかが不安だった。
「……ぼ、僕なんかで本当に、いいの……」
「どういう意味だ?」
「だって、ニックは立派な経営者で、僕はただの若者で学生で何も持ってなくて、これといった取り柄もなくて、それに」
「純己」
ニックは純己の言葉を制して、純己の二の腕に優しく手を添えた。
「純己には英語の才能があるじゃないか」
「そんなの僕じゃなくても誰でも持ってるものだし、それに」
「待ってくれ……俺は純己がいいんだ。純己そのものが欲しいんだ。背景にあるものなんかどうでもいい。何もいらない。俺に何かを与えようとしなくていい。俺が純己に与えたいんだ。俺に与える側でいさせて欲しい。……それとも俺じゃ不満かい?」
「そ、そんなこと、ないです……っ」
「じゃ、もう一度、いや何度でも言う。俺は純己が好きだ。俺の恋人になってくれるかい?」
「……は、はい、……僕も、ニックが、好きです……」
純己はやっとニックの瞳を見つめ返すことができた。心の奥にあった素直な気持ちも出せた。
ニックの逞しい腕がそっと純己の背中に回った。ニックの顔には微かに笑みがたたえられていた。宝石を見つめるようでいて獲物を捕らえたようなニックの瞳が純己の心の動きを封じた。
純己もその瞳から自力では視線が外せない。それが無言のゴーサインになったかのように、少し傾いたニックの顔がゆっくりと近づいてきた。純己は瞳を閉じた――。
柔らかくて温かいものが、純己の唇を覆った。
「んん……っ」
初めてのキスだった。唇と唇が触れた瞬間、絹のような滑らかな感覚が走って、するすると静かな音を立てているようだった。そのうち熱い湿った空気が唇に吹きかけられたかと思うと、もっと熱い蜜をまとったぬめりのあるものが純己の唇をくすぐり始めた。それがニックの舌だと分かったとき、純己の中にある蜜が少しこぼれたような気がした。
純己の小ぶりな口より一回りも二回りも大きな口は、純己の口を完全に塞いでしまい顔全体を温かくした。空気の抜けどころは鼻しかなくなった。
「……ふぅ……ん」
二人の鼻息が同時に漏れた。ニックのキスは穏やかでゆっくりで親切だと感じた。急に奥まで入ってくるのではなく、入口あたりを優しく丹念に味わっているのが分かる。恐る恐る純己も舌を前に進ませてみた。今の気持ちを形にしたらきっとこんな感触だ……。
密着しているのに滑りのせいで留まることはなくて、お互いに熱い蜜を塗り合う。
気恥ずかしさからやっぱり逃げてしまう純己の舌を、ニックの肉厚な舌が追いかけてくる。逸れようとしても行く手を阻まれ、引っ込ませても連れ戻される。
ニックの愛し方そのものだと思った。
「ん、うふ……んんん、しゅ、っぷ、んんううっ」
濡れた狭い場所での鬼ごっこがしばらく続いた後、唇を甘く吸われ、ちゅっという音が鳴ってニックの唇がじんわりと離れていった。
目を開けると、さっきの位置にニックの顔があった。呆けたように純己を見つめている。
「純己、可愛いよ。どこもかしこも柔らかい……ほら、こんなに垂らしちゃだめだ」
ニックはそう言いながら純己の唇の端を親指で拭い、その指を軽く吸った。
純己の前髪を少しだけ梳かし、優しく頬と耳に触れる。
「純己、愛してるって言わせてもらえないか?」
「……う、ん……」
純己は何もかもが初めてで、小さな声で返事をすることと頷くことだけで精一杯だった。
「ああ純己、俺のものだ、誰が何と言おうと、もう俺のものだ」
ニックは純己を抱きしめた。
嬉しい。僕、今、本当に男の人に愛されてる……。それがニックなのがもっと嬉しい。
ニックの股の間に引き寄せられ密着すると、ニックの盛り上がったところと純己の固くなったところがちょうどくっついてしまった。あ……。先っぽに濡れた感覚が走った。
え……やっぱり、大き、い。ニックのは服の上からでもその大きさが伝わった。ニックの先が純己のおへそに当たった。なんて逞しいんだろう……。
純己の顔を埋めているニックの首も肩もどんなことがあっても動かなさそうに頑丈だった。それを超えるくらいニックの気持ちの強さも伝わった。
ニックはゆっくりと体を離した。
「純己、今日から君は間違いなく俺の最愛の恋人だ。大切にするよ、約束する。一緒に幸せになろう」
「うん……ニック、僕も好きです」
今度は純己から抱きついた。ニックの逞しい腕が純己の華奢な体を抱きしめ返した。
「今週末は早速埋め合わせのデートをしよう」
「うんっ」
純己の耳元で甘く響いた口づけの音が「俺も愛してるよ」という囁きに聞こえた。
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