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第五章 咲く花、散る花 ①
桜の花びらが舞い散るキャンパスを歩きながら、純己は一枚の小さな紙を見つめた。
グッドトライクーポン――。
ニックの教室で初日に受け取った好きな講師と一時間話せるクーポンだ。かばんの内ポケットの奥からふらっと出てきた。結局このクーポン券を使わないままニックの教室を辞めることになった。
恋人になったニックにこのクーポン券のことを伝えるのもなんだか気恥ずかしい。自分から辞めておいて今さら使うこともできない。でも捨てる気にはなれず、なんだかニックの切れ端を持っているみたいに感じる。
先日のデート中にニックからびっくりすることを報告された。ニックはこの大学の一年生の英会話クラスの非常勤講師と英語サークルの顧問の一人に就任したのだ。大学との業務提携の契約の中で講師の派遣も条件に入っていたらしく、どうやらニックが自ら手を挙げたとのこと。
部下でもあるコーディネーターの杉山加代からなぜか反対されたらしいけれど、新しい講師を何人か採用して駅前教室は任せていると聞いた。週に一、二回はニックも教室の様子を見に行っているようで、教室の運営自体は加代のお陰でうまく回っているらしい。
「お、お、小田じゃん!」
威勢のいい声色と聞いたことのある台詞で、純己は前を向いた。室川健吾が目を丸くして立っていた。純己は咄嗟にクーポン券をかばんの内ポケットにしまった。
「おいおいおい、まさかお前、ここに入ったとか?」
室川が近づいて来た。純己は、いつかこういう日が来るだろうとは思っていたが、ニックに愛されてニックを愛している今、室川に会いたいとは思っていなかった。それに室川は、純己があの時好意を寄せていたなんて分かるはずもなく、こちらが気にしなければただの先輩後輩のままでいられる。
「あっ、室川先輩、お久しぶりです。そうなんですよ、僕もここなんです」
「マジかっ、なんで言わないわけ? ラインしろよっ」
「いやなんかキャンパスで会ったときに驚かせようかなって。先輩忙しそうだったし」
「いやいやいや、一言で済む話じゃん。半年くらい前にあそこの英会話教室の前で会ったときには決まってたのここ?」
「えっと、どうだっけな、推薦終わったばっかだったから浮かれてたのかもしれません」
「まあいいわ、お前らしいわ、っていうか、茶でも行っとく?」
「あ、それが、これから英会話クラスなんですよ、すいません」
「お前も取ってんだ? 俺も取ってるよ。今年から一年のクラスには新しい講師も来るって、そうそう小田の通ってたあの教室と提携したらしいな、うちの大学」
「え、あ、そうなんですね、知らなかったー」
「お前の知ってる講師も来るんじゃね」
「かもしれませんね、いろいろお世話になったんで皆さんと会えればいいな」
口からするすると嘘が出ていった。なんだか自分が大人になったように感じる。これは恋愛しているからなのか、その相手が大人だからなのか、言葉の先に起こりうる何かを先に感じて言葉を選べるようになっていた。
純己は思ったことを何でも言ってしまう自分が少しずつ消えている気がした。
「小田は、英語サークル入んないの?」
「僕も入るつもりでいますよ。来週受付してもらえそうなんです」
「そっか。俺も所属してるんでよろしくな」
「あ、はい、よろしくお願いします」
室川が所属していることの予想はついていた。でも英語を学びたい気持ちとニックと一緒にいられる時間が増える楽しみで英語サークルには所属すると初めから決めていたのだ。
ここの英語サークルはただの学生のお遊びではなく、英語弁論大会に出場したり、国際的な試験に臨んだり、合宿があったり、他校とのプレゼンコンペがあったり、提携先企業のインターンシップに参加したりで本格的に英語の教育に力を入れているのだ。
室川と別れるとほっと小さく息を吐いた。一時的に好きに近い感情があったことは事実だった。それを悟られまいとしている自分がいるのも事実だ。だけど、室川に会っても胸はときめかなかった。
純己の心にはニックの愛情がたっぷりと注がれていて、もう何も入らない。
英会話クラスのドアを開けると、テキストを見ていたニックが顔を上げた。純己が一番乗りで来たことが分かると、ニックは口角を上げて純己を見据えた。
ニックのスーツ姿を初めて見た。いつもはラフな格好だけれど大学という教育現場をちゃんと意識しているのかもしれない。ニックの知的な雰囲気と整った顔立ちがネイビーのネクタイとダークグレーのスーツで余計に引き立っていた。
「ニックのスーツ姿初めて見たー」
「そうか、そう言えばそうだったな。……純己、今日も可愛いよ」
ニックは小声でそう言った。
「ありがとっ」
「まだ誰も来ないならキスしたいよ」
「ダメだよ、それは」
「したい」
ニックはそう言って立ち上がった。もうスラックスが盛り上がっていた。その時、ドアをノックする音が響いて、ニックは慌てて座り直した。
ドアが開いて入って来たのは、室川健吾だった。
なんで……忘れ物とかかな。ニックを見ると、ニックも怪訝そうな顔をしていた。
「君はここのクラスの学生ですか?」
ニックは室川の顔を知っているが、室川はニックのことを知らない。だからニックもあえて初めて見るような言い方をしたのかもしれない。
「ああ、いえ私は二年なんです」
「すまないがここは一年のクラスなんだ」
「分かってます。小田君に用があって」
室川はそう言って純己の方に視線を送った。
「え、僕ですか? なんか僕落とし物とかしてました?」
純己は日本語で聞いた。すると室川は何かを差し出した。
「これ、英語サークルで使う頻出単語帳」
室川も日本語でそう言った。手渡されたのは新しい単語帳だった。
「えっ、これどうしたんですか」
「入学祝。生協で買った」
と言って室川は微笑んだ。
「あ、や、そんな申し訳ないので、これ」
「いいっていいって、気持ち気持ち」
「でも」
「じゃ入部お待ちしておりまーす」
その時、ニックの咳払いが響いたかと思うと、ニックがすぐ横まで来ていた。
「ああ、その、私も英語サークルの顧問の一人になることが決まっているので、単語帳なら私の方でも何冊か用意しているんだが」
「いいんです、これは私から後輩へのプレゼントなので。先生の持っていらっしゃる単語帳は他の学生にあげて下さい」
「ま、まあ、そうだが……そろそろ、授業が、始まるんだが」
「え? 小田君以外誰も来てないですし、まだ十五分ありますけど」
「くぅぅっ……」
ニックの喉が鳴った。
「とにかくっ、授業を受ける学生と前もって話もしたいし、連絡事項もあるんだ」
「分かりました。じゃ私は出て行きます。あ、小田、後でラインするから」
「え、あ、はい……でも別に」
純己の返事を聞くか聞かないかのタイミングで室川は教室を後にした。
「純己、彼とどこかで会ったのか? じゃないと純己がここに来てることは」
「うん、さっきキャンパスで会ってお茶に誘われたから英会話クラスがあるって答えた」
「お茶に? 随分と調子がいいじゃないか」
「知らないけど」
「後でラインが来ると言っていたな? 来たら俺に見せろ」
「いいけど、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。適当に返事しとくから」
ニックはしばらく視線を落として、また純己をじっと見つめた。
「純己、もうあいつのことは……その、なんだ、だから、あれだ」
「好きじゃないよ、もちろん。僕はニックのことが好きだよ」
ニックは嬉しさと恥ずかしさの混じった顔をした。
「そうか! なら良かった。俺も純己が好きだ」
「うんっ」
ニックが唇をすぼめて近づけてきたが、教室ではさすがにまずいと思い、純己は手の平でニックの口を押さえた。
「だめっ、大学の教室だよ」
ニックは笑ってからちょっとすねたような顔をして観念してくれた。
授業が終わってしばらくすると室川からご飯の誘いのラインが来た。用事があると言って適当に断ったけれど、室川がなんで急にこんなに接近してくるのかが分からなかった。知らない仲ではないし同じ大学の学生になったことで親近感が湧いたということなのか。
室川が彼女と手をつないで歩いているときの姿が浮かんだ。あの時はまるで純己のことなんか眼中に入っていなかった。その証拠にその後もラインすると言っておいてラインなんて来なかった。ニックの言うように調子がいい人だと思った。
高校の英語クラブで親切にしてくれたことには感謝しているし、憧れや期待感があったのも本当だけれど、今となってはいい思い出のひとつに過ぎない。
「純己、待たせて悪い」
ニックが小走りでやって来た。講師陣の打ち合わせが終わるのを待って一緒に帰る約束をしていた。純己も花壇から立ち上がった。
「ちょうど純己の意見を聞かせて欲しい案件があってさ」
「そうなんだ、僕で良ければ何でもどうぞ」
「ありがとう、助かる。でもちょっと時間を取らせるかもしれないが」
「いいよ、コンビニのバイト始まるの来月からだし、まだ今月は収録以外は時間あるし」
「そっか……」
ニックは急に真顔になって純己を見つめた。
「なに……?」
「じゃ、寝かせないつもりでいてもいいかな?」
「寝かせないってそんなにやること多いの?」
「……多いね」
「どういう案件なの、それ? 急にプレゼン資料作らないといけないとか?」
「資料作成だけならディナーのついででもいいさ」
「え?」
「その後の純己というデザートをいただくのに時間がどうしてもかかりそうなんだ」
「もう、なにそれっ、エッチ」
純己はニックのがっちりとした腕を叩いた。ニックは嬉しそうに笑った。純己もいつものニックのユーモアが嬉しくて笑った。ここがキャンパスだということも忘れそうになって、いけないと思い直したとき、ふっと顔を右斜めに向けた。そこには室川が立っていた。
純己は明るい表情で会釈だけしようと思ったのに、室川は無表情で視線を外して去って行った。その態度も気になったが、今の会話を聞かれていないかどうかが気になった。聞こえているか聞こえていないか微妙な距離だった。
「なんだあいつ、まだいたのか」
ニックが室川の後ろ姿を睨んだ。
「なんだろうね」
「純己、ラインを見せてくれ」
純己はさっきの室川とのやり取りを見せた。
「純己の用事が俺だということが気に食わなかったか。ならちょうどいい」
「そんな言い方。それに室川さんが僕のことそういう目で見てるわけじゃないし」
「それは分からない」
「そんなことないよ、彼女もいるのに」
ニックはそれ以上は答えずに違う話題に変えた。
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