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第五章 咲く花、散る花 ②

 午前中の必修科目の授業が終わって、英語サークルの友人数人と食堂でオムライスを食べていると室川のグループが隣のテーブルに座った。 「よっ」  室川は軽快に声をかけてきた。 「あ、お疲れ様です」  他愛ない会話をした後、恒例の新入生歓迎会を兼ねた合宿の打ち合わせが自動的に始まった。大学からチャーターバスで二時間程走った地方の山間の合宿施設で行われるらしく、そこは山菜料理と美しい星空を仰げる露天風呂があることも売りの一つだった。  グループワークで大学における英会話クラスのメニューを考案し、プレゼンを行って講師たちの投票で一番になった案を実際に導入するものらしい。自分たちの考えた案が実際に採用されるかもしれないのでみんなにやる気が湧いた。  部屋割りは室川が率先して作成したらしく、男女別に四人部屋になっていた。そのうちの一部屋のメンバー表に、室川と純己の名前があって純己は緊張が走った。室川と同じ部屋ということになるからだ。  ここで異論を唱えるわけにはいかない。同性同士で旧知の仲でもあって人間関係に軋轢があるわけでもない。同じ部屋に宿泊することに誰も何も疑問を感じない。純己以外の学生は終始楽しそうにメンバー表を眺めている。純己はそっと室川の顔を窺った。室川は別の学生と話していたが、純己の視線に気づいたのかこちらを見た。 「小田、どうかした? なんか浮かない顔してるけど」 「い、いえ別に」 「不安な点があったら言えよ」 「あ、はい、大丈夫です」  もう一度よく部屋割り表を見ると、純己と室川以外の二人は三年生の先輩の高村と五十代のベテラン講師のリチャードだった。この講師がニックなら良かったのにと純己はすがるように思った。ニックの名前を探すと同じ階の別の部屋になっていた。  そこへニックを含め講師たちの一行が食堂に入って来た。ニックは純己と目が合うと表情を緩めて目配せしてくれた。純己も同じようにした。  ふと、室川の方を見ると室川はニックの方を見ていて、すぐに純己に視線を移してきた。室川は純己と目線が合うと慌てたようにコップに手を伸ばした。  夕方、英語クラブの控室で純己はニックに、室川と同部屋だということを話した。ニックはいったんは苛立ち悪態をついた。そして冷静になったとき、いい案があると言い出した。 「リチャードに部屋を交代してもらえないか交渉してみる。講師同士なら大丈夫だろ」 「理由はどうするの?」 「確かにそこだ。俺のわがままだけだととみんなに迷惑をかけることになるから考えてみる」 「ごめんね……」 「謝らなくていいよ、俺も不安だ。逆に言ってくれて嬉しいよ」 「うん、くじとかならまだいいんだけど、室川さんが作成したっていうのが気になって」 「そりゃそうだ。純己の不安は理解できる」 「ありがとう」  そのときニックの携帯の着信音が鳴った。 「んん、加代だ、なんだろ」  コーディネーターの杉山加代だと純己もすぐに分かった。仕事上の急用だろうと思い、純己は先に歩いた。後ろの方ではニックの少し驚いたような声が聞こえたが、仕事の内容なのに純己が横でべったりと聞いてはいけないと思った。  純己はかばんの内ポケットからそろっとグッドトライクーポンを取り出した。今ならこれのこと話せるかな。  でもなんのために使うの。目的なんかない。ただニックにこの券を持っていたことを知ってもらいたい。それだけだった。  まだ持ってたのかって笑ってくれてもいいし、こんな券がなくてもいつでも会話の相手になるよでもいいし、反応は何でもいい。 「純己、すまないが教室にすぐに戻らないといけなくなった」 「あ……、う、うん、分かった」  純己は後ろから近づいて来るニックの声色で事態を悟り、クーポン券をかばんにしまった。 「途中の駅で下ろすよ」 「ううん、バス使うからいいよ、先に戻って。急用でしょ」 「悪い。詳細はまた話すが別の教室で横領まがいなことが起きたらしくて。ったく」 「え……行って、気にしなくていいから」 「すまない、じゃまた連絡する」 「うん、気を付けて」  ジャケットの裾を波打たせながら大きな背中が小走りで遠ざかって行った。  寂しさはない。愛されていると分かっているから。ニックの仕事がうまくいくといいなと思った。 「小田」  声の方に振り向くと、男子トイレから出て来たばかりの室川が立っていた。  え……まだいたんだ、室川さん……。 「あ……お疲れ様です」 「帰りだろ?」 「え、あ、はい」 「一緒に帰ろ」 「は……い」  室川は普段よりもおとなしい雰囲気で口数も少なかった。  バス停まで来ると室川と純己以外に人はいなかった。 「お前さ、佐藤翔也って知ってる?」  室川の突然の質問に純己は首を傾げた。室川は続けた。 「みんなからショーヤって呼ばれてる」 「……え、あっ、もしかして、うちの妹の彼氏じゃないですかね」 「やっぱり、そうなんだ。じゃ、小田美菜ってお前の妹さんなんだ?」 「そうですけど、え、なんで妹のこと知ってるんですか?」 「俺さ、先週から駅前のコンビニでバイト始めてさ、お前に似た感じの女子高生の小田ってのがいたから、あれって思って」 「ええっそうなんですね、ああ、それ間違いなくうちの妹です。駅前なんで」 「お前ら美男美女兄妹だな」 「全然全然、そんなことないですっ」 「佐藤は俺の友達の友達で、バイトも友達通して紹介してもらったんだよね。そしたらカップルでバイトしてるって聞いてさ」  ひょっとして妹のことが気になって急に純己に近づいてきたのかと思った。そうであるなら若い男子としては健全なことだけど、でも妹には彼氏がいるからちょっと複雑な思いがした。 「そうだったんですね。うちの妹、わがままで気の強いとこあるんでご迷惑おかけしてませんかね」 「いや、ぜんぜん、バイトでは俺の方が新人だし、めっちゃ優しく教えてくれてるよ」 「なら良かったです」  純己はそんな偶然もあるんだと思いながらも、自分にはあまり関係のないことだと思うようにした。しばらく沈黙が続いた後、室川が口を開いた。 「実は、今度お前んちに行くことになったんだ俺」 「え! なんでですかっ」 「佐藤が誘ってくれた。彼女んちでお母さんがお好み焼きを作ってくれるからみんなおいで的な? 美菜ちゃんからも誘われたよ」 「うちの母親がですか? 知らなかった……」 「だからびっくりさせないように前振りしたから」 「分かりました。小さいしょーもない家ですけど楽しんで下さい」 「え、お前は?」 「あ、僕はいいです、聞いてないですし、妹もバイト先の人を呼びたいのかもですし」  少しの沈黙があった。 「……なんかさ、小田さ、俺のこと、避けてない?」 「っ……え、そ、そんなことっ」 「もっとお前なんていうの、俺と会ったら嬉しそうにしてくれてたのに」 「い、いや、そんな、だって」 「あんときカノジョ、見せたから?」 「っ……?!」  純己は室川を見た。道路の方を向いていた室川も純己を見た。純己は何も言えず瞬きを繰り返した。 「ついでに言っとくと、あの女とは別れたから。あの女、やりたいだけのヤリマンでさ、可愛いけど自己中過ぎてウザくなってきてさ」  純己は視線を外し道路の方に向き直った。返す言葉は見つからなかった。だったら何だと言うのだろう。どうしてそんなことを言うのだろう。純己には関係ないことだし、彼女と別れたことが本当でも室川はノンケなわけで、純己とは生き方が違う。  重たく響くエンジン音が聞こえ、目線をやるとバスが近づいて来ていた。 「なんで黙ってんの?」 「……いえ別に」 「なんでそんなこと僕に言うんですかって言いたいんだろ?」 「えっ、そんなこと思ってないですっ」 「嘘つけ」 「嘘じゃありません……」  バスの乗車口がプッシューと開いた。先に乗りかけていた室川が急に振り返った。 「俺はどっちもいけるから」  そう言い残して先に乗り込み、一番後ろの席に着いた。純己は足が動かずに息が荒くなるのが分かった。 「……っ……」 「お客様、乗車されますか?」  車内から運転手のスピーカーを通した声が聞こえて純己も乗り込んだ。窓の方を見ている室川の一つ前の席に着いた。横に座る程の度胸もなく、だからと言って遠い席に座ってまた避けていると言われるのが嫌だった。 「俺は正直に自分のこと話したぞ」  純己の頭の後ろから室川の落ち着いた声が聞こえた。聞こえない振りもできない位置にいて純己は反応に困り、思わず俯いてしまった。 「お前はどうなの」 「……どうって……」  純己は言葉が出てこなかった。室川もそれ以上聞くことはなく、沈黙したままバスが駅に着き、室川はバイトに行くとのことで普通の挨拶を交わして別れた。  一人になって純己はようやく空気が吸えた気がした。

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