18 / 32

第五章 咲く花、散る花 ③

 インターホンが鳴り、ニックは急いで応対した。届いた大きな段ボールをベランダの前の床に下ろし、早速開封した。  間に合ったようだ。別に今日でなくてもいいのだが、今日来たからには今設置しないと来た意味がないじゃないかっ。  中からは天体観測に使う大きな望遠鏡が現れた。ニックは苦笑した。  馬鹿野郎だよ俺は、ったく。何考えてんだか。純己の安全のためでもあるんだ、と言いたいところだが、純己の日常を観察したい願望があることは……ああ否定しないさ……。 「馬鹿野郎ッ、馬鹿野郎ッ、馬鹿野郎ッ」  とニックは呟きながら説明書を広げ組み立て始めた。家庭用のものなら数万円からあるようだがそれでは余りにも安すぎるので、五十万円程のものにした。  こんなにリーズナブルに手に入れられるとは思っていなかった。家庭用望遠鏡の中では高価なものに入るらしく、そのお陰か組み立ても容易だった。  純己を後ろから抱きしめた位置に望遠鏡をセットする。  まず赤い線の入った鉄塔がレンズの中に入ってきた。もう少し手前だ。砂利の広場が見えた。もう少しずらして……よしここだ。純己の住む二階建てアパートにピントが合った。  こんなことしちゃだめだっ。変態なんだよ俺は。あぁ、すまない、純己、好きだ……っ。  もうすぐこのドアから純己が出てくるはずだ。俺はそれを確認したら駅まで迎えに行く。今日は美術館に行く約束をしているのだ。純己は今日はどんな格好をしているのかなあ。可愛いだろうなあ。  その時、外階段を上る人間が見えた。  若い男……見覚えがある顔……んん?! 室川健吾じゃないか!  なぜだ、なぜだ、なぜだっ、あいつ、純己にちょっかいをかけに来たのか、だけど落ち着け、純己は俺との約束があるので断って出て来るはずだ。  室川に続いて若い男と若い女も階段を上ってきた。どういうことだ、純己の友人たちか、あ、もしかして純己の妹の友人か? じゃ室川は何なんだ?  室川がドア横のチャイムを押した。中から若い女の子が笑顔で出て来た。純己の妹だな。純己に似た可愛い顔だ。  どう見ても招き入れられたように室川を含む若い男女三人が家の中に入って行った。  だけど純己がなかなか出て来ない。おかしい、もう駅に向かう時間のはずだ。  あっ、純己が出て来た! やっぱり可愛いっ、他の奴らとは違うなあ。今日はどうして食べてくれよう。  純己が階段を下りかけると、家の中から室川が出て来た。そして純己を呼び止めた様子で純己も振り返った。  はあ? なんだそれ、俺の純己に気安く話しかけるんじゃねえ!  二人は何やら話している。純己はこちらに背中を向けているので表情は分からないが、室川の奴は少し神妙な顔をしている。真剣に何かを伝えている様子だ。  家の外だからまだいいものの、何を話しているんだ、変なことを話していたら許さねえぞ、クソ野郎!  話の途中で純己は強引にこちらに振り返った。  よしその調子だ、純己、いい子だ。純己は立ち止まって視線を落としている。律儀な純己はとりあえず室川の言い分を最後まで聞こうとしているんだろう。そんなことしなくていい、無視して階段を下りろっ。  室川が一歩踏み出した時、純己は軽く会釈だけして階段を足早に下りた。室川は階段の上から純己の方を見ながら哀しそうな顔をしている。  なんだその顔は! お前がしていい顔じゃねえ!  純己、走れ、早くバスに乗るんだ、そして早く俺の胸に飛び込んで来るんだ!   室川はしばらく佇んだ後、家の中に入って行った。  あの野郎、調子に乗りやがって、俺のものに手を出したら絶対に許さねえ……。  純己は俺のものだ! 俺だけのものだ!  よし、こうしてはいられない。俺も駅に向かうとするか。  駅のロータリーにレンジローバーを停め、窓を開け、肘を乗せた。  サングラスをしているせいか左ハンドルだからか、通りすがりの人がみんなこちらを見て行く。この車は一般的に高級車と言われているし、ニックのような男がサングラスをかけて乗っているとどうしても日本では目立ってしまうのだろう。  改札から小走りで出て来た純己は違う方向を見ていた。ニックはクラクションを鳴らした。純己はこちらに向き直り笑顔になった。お花畑から野ウサギが飛び跳ねて来た。  純己のコーデは春だった。野に咲く花々の色を服に染めて出てきたかのようだ。  望遠鏡ではアパートの手すり壁に体半分が隠れていたのでよく見えなかったが、こうして肉眼で見ると純己がどんな色の服も似合う天使だとすぐに分かる。俺の春の天使だ。 「ごめんね、待ったでしょ」 「いや、全く待ってない」 「ありがとっ」 「純己を待つ時間はいつも俺にとってのゴールデンタイムだ」  純己は、きゃははと嬉しそうに笑ってくれた。春の鳥のさえずりはセクシーだ。  さっきのことがやはり気になる。どう聞き出せばいいのか。望遠鏡で見ていたなんて言えるはずもない。 「あっと、純己、お母さんと妹さんは元気か?」 「え? うん元気だけど、なんで?」 「いや、まあ、純己の家族の話も聞きたいなと思ってね」 「ああ、そう言えば今日ね、妹のバイト仲間をうちに呼んで母親が腕を振るってお好み焼きパーティしてるんだよ」 「ほー、お好み焼きパーティとはいいねえ」 「あっそうだ、ニックに話しとかなきゃ」 「な、ナ、何をだ?」 「あのね、妹のバイト先で妹の彼氏も働いているんだけど、その彼氏の友人の友人が室川さんだったみたいで、室川さんもたまたまそこで働くことになって今日うちに来たんだ」 「なんだってー、それはどういうことだー、室川が純己の家にー、信じられないー」 「僕もそれを聞いたときはびっくりしたけど、しょーがないよね」 「何も変なことは言われなかったか?」 「……う、うん」 「なんだ、なんで元気がなくなるんだ、話してくれ」 「実はね、室川さんは留学を考えてるらしくて、合宿が終わったらしばらく会えなくなるかもって。それで留学先に夏休み使って旅行がてら来いよって」 「なんだとっ、俺は認めないぞっっ」 「僕も行くつもりないよ、そんな余裕ないし。ちゃんと断った」  なんだ、あいつ、遠距離恋愛気取りじゃねえかっ。クソ野郎め、油断も隙もないじゃないか。純己がこうして誠実に俺に何でも話してくれる子だからいいものを。  早くどこへでも行きやがれ! もう帰って来るな! そこで永久就職しちゃえよ! 「ニック?」  ニックは心の中で悪態をつきながらいつの間にかハンドルを叩いていた。 「ああ、何でもない。室川君と話したとき英語もちゃんと話せるようだったし、この際、留学先で就職という手もあるかもしれないなあ。ぜひ国際的に活躍して欲しいね」 「うん、確かに室川さんも英語うまいと思う。海外で就職ってかっこいいね」 「純己は日本で就職したらどうだ? もし海外で就職したいなら俺の教室がある国か、ない国でも俺の教室をオープンさせてからにしてくれ。俺の祖国アメリカでも歓迎だっ」 「僕は基本日本がいいかな。家族も助けなきゃいけないし。……ニックの教室ってアメリカとかの英語圏じゃ開く意味ないんじゃないの?」 「あっそれもそうだ、忘れていた………はっはっはっ」  ニックと純己の笑いが収まった後、純己が道路を指差す小さな可愛い手が見えた。ニックは今日はもう黙ってつないでやろうと思った。理由のはっきりしない興奮を感じていた。  ニックは、純己が左手を下ろした瞬間に手を握った。純己は少し頬が染まったが黙って握り返してくれた。ニックの大きな手を下にし、純己の手を乗せるようにして全部の指を絡ませた。   この小さくてすべすべしているきれいな手も俺のものだ。とにかく俺のものなんだよ。  美術館の暗い場所では人混みに混じって手をつないだ。純己は人に押されるたびにそっとニックの肩に頭を寄せてきた。その遠慮がちな柔らかいタッチが心地いい。二人でああだねこうだねと言いながら鑑賞する絵画はどの絵もパステルカラーの絵に見えてくる。  純己がグッズ販売コーナーに行きたいと言い出した。純己の提案でお揃いのタオルハンカチとクリアファイルとノートとペンを買った。一流の絵画だけに確かにおしゃれな小物だ。ニックが財布を取り出す隙に純己はもうレジに立っていた。純己が日頃のお返しだと言ってプレゼントしてくれた。  カフェでお茶をし英会話クラスのことや英語サークルの話で盛り上がり、今度こそはと海辺のイタリアンでフルコースを食べた。  純己も素直に今日は俺に甘えてくれたので俺も満足だった。夜は俺の部屋でいちゃいちゃを飽きるまで繰り返し、一緒にシャワーを浴びて洗い合って、ベッドで本当の意味でのデザートを食べようかと思ったが、純己がどことなく疲れている感じだったので、腕枕をして抱き寄せ、添い寝で朝を迎えた。  目が覚めたとき腕に軽い重みがないことに気付いた。横にいるはずの純己がいない。体を起こすと、ベランダに立っている薄着の純己が見えた。ニックの白いシャツを着ているせいか、それが風にたなびくたびに雲に包まれているように見える。まるで天の使いだ。  朝陽を浴びに出たんだなと思っていると、望遠鏡を覗き始めた。  気分転換も大事だ。純己の一人の時間を邪魔するほど野暮じゃないさ……とベッドに体を預け直した途端に「あぁっっ!」と声を上げてニックは飛び起きた。  ボクサーブリーフだけ履いてベランダに行くと、純己が望遠鏡の前で腕を組んで片方の口角をくっと上げた顔で立っていた。  やってしまった……。バレたか……。昨日は慌てて出たから望遠鏡を別の場所に移動させたりカバーをかけたりすることを忘れていたのだ。嫌われたら俺はもう生きていけない……。 「純己……違うんだ、その、あの、説明させてくれ……」 「ニック、何してんの?」  ニックはベランダに出て純己に近づいた。 「純己、ごめん、ごめんよ、純己を疑ったりしたわけじゃないんだ」 「……なんでこの望遠鏡、僕の家に標準合わせてるの?」  ニックは純己の言葉を遮り、純己の両肩を持って顔を覗き込んだ。 「頼む、俺のこと嫌わないでくれ、純己に捨てられたら俺はもう生きていけない、死んだ方がマシだ、頼む、頼むよ、お願いだっっ」  ニックは膝をつき純己の華奢な体にすがりついた。そして鼻をすすり始めた。 「ニック、ちょっと、ええっ、何っして」 「頼むよ……っく……俺は本当に本当に心から純己のことが好きなんだ………っ……ひっ……お前しかいないんだよ……ひっく……こんなに人を好きになったのは初めてなんだっ……ずっと一人で寂しくてたまらなかった……でも純己みたいな可愛いアジア人男性が好きだなんて誰にも言えなかった……一目惚れだったんだ! 初めて純己を見た瞬間から大好きでどうしようもなくて、おかしくなりそうだった……一生ともに生きていきたい、死ぬまでそばにいて欲しいってずっとずっと思ってた! だからどうか捨てないでくれっ、許してくれっ、許してくれるならどんなことでもする……ぅぅぅっ……お願いします、どうか、お願いしますぅぅぅ!」  ニックは純己を揺すって懇願し、純己のお腹に顔を埋め泣き喚いた。 「……ニック、落ち着いて……」 「嫌だあ! ヤダッ! 俺は純己がいい! 見捨てないでぇ! 頼むよぉぉぉっ!」 「……分かってるよ、大丈夫だから……」 「え……?」  純己の穏やかな声が聞こえてニックは顔を上げた。純己は仄かに微笑んでニックの頭を撫でてくれた。陽の光が純己を照らし、白い衣が舞った。 「ほ、本当か? こ、このまま付き合ってくれるのか? こ、こんな俺でもいいのか?」 「うん、いいよ」  純己はニックの額にキスをしてくれた。 「純己ぃぃ……」  ニックはベランダのアスファルトに手をついて犬のような格好のままだが、純己も腰を落としたので目の高さが同じになった。 「こんなに泣かなくてもいいじゃん。ほら鼻水も」  純己は指で涙も鼻水も拭ってくれた。 「僕もニックのこと大好きだよ。ずっと一緒にいたい。だから安心して」  ニックは歪みそうな顔を堪えた。 「もう泣かないで、ニック」 「ぅぅっ、うん、我慢するっ」  純己は両手でニックの顔を包んで、唇に軽いキスをしてくれた。 「純己、もうこんな真似しないから、ごめんね」 「でも嬉しかった。ニックがここまで僕のこと気にしてくれているんだって」 「え……」 「僕も心の中でずっとニックに嫌われたくないって、捨てられたくないって思ってた。ニックは大きな会社の経営者なのに僕なんかでいいのかなって。周りからニックのお金目当てで若さを武器に近づいたんじゃないかって思われないかなって正直気にしてた……。僕は生活するだけのお金があればいい方だから全然そんなんじゃないんだけどね。僕は……僕はね、僕のこと恋愛対象としてパートナーとしてちゃんと愛してくれる人がずっと欲しかった。その真っ直ぐな愛さえあれば他に何もいらない。それだけで僕は生きて行ける。ニックは、僕のことちゃんと愛してくれた。そ、それが、すごく嬉しくて……、っく、僕だって、っ……僕だってニックと出会えて良かったって、心から思ってるよ……」  純己は唇を震わせて静かに涙を流した。ニックは純己の涙を指で拭った。 「純己……」 「ニック……」  ニックは純己を力いっぱい抱きしめた。  これ以上の言葉はいらない。両想いだって本当に分かったから。  ニックは、何が起きても純己を守りたい、永遠に純己を愛したい、と思った。  ニックは純己を抱き上げ、部屋に戻り、ベッドに直行した。

ともだちにシェアしよう!