22 / 32

第七章 せせらぎが聞こえる ①

 ラジオ番組の収録も終盤になり、学生コーナーは今回の収録を終えると次はもう最終回だった。タケルから「この一年間でやり残したこと」を思い返してみようという提案がされた。  台本の中の設定であることは分かっていたが、純己の中には一つのことが浮かんだ。  ――ニックに英語の実力を認めてもらうこと……。  恋人になった今、ニックと無意識に英語を話していて何の違和感も苦労も感じていない。それはニックが純己を甘やかしているだけで、純己の英語の中の語彙や文法に間違いがないとは到底言い切れない。  ニックはきっと純己に嫌われたくないという理由で指摘してこないだけかもしれない。初めてニックに出会った日に指摘された英語の「トゲ」や「カド」はもう取れているだろうか。ちゃんと人に気持ちが伝わる英語になっているだろうか。  今のニックに真正面から聞いても優しい嘘を言うのが目に見えている。だけどニックはその道のプロフェッショナルであって、英会話教室の経営者であって、英語を母国語としない人間の英語には敏感だ。そんなニックに、恋人としてじゃなく、一人のプロ講師として純己の英語のレベルチェックをして欲しい……。  これは贅沢な要望なのかな。そもそもニックとの出会いのきっかけはこれだったんだから、こう考えるのは無理なことじゃないはず。それにはちゃんとした建前だって必要だ。  コーディネーターの杉山さんに聞いてみよう、このクーポン券がまだ使えるか――。  前もって連絡したらニックはまたどうせすぐに迎えに行くとか、その後にキスしたいって言う。だから杉山さんを通せば純己の本気度を分かってくれるんじゃないかと思った。ニックの仕事での本気も見せて欲しかった。ニックの違う一面もまた感じてみたい。  英語を使った仕事に就きたい。しっかり稼いで家族を助けたい。妹の美菜の進学のための学費も工面してあげたい。母の典子にも少しは楽をして欲しい。だから純己が持っているものを全て出し切って世の中で自分を試してみたかった。戦ってみたかった。見た目も中身もソフトな男性だと見られがちな純己だが、心の中には鋼の部分もあるんだぞって言ってやりたい。  ニックならこの気持ちも絶対に分かってくれるはず。  室川先輩は留学すると言っていた。純己の周りにもそういう友人は何人もいる。純己にはそんな余裕も資金もない。奨学金で授業料を免除してもらうだけで精一杯だった。  だから自分で高めるしかないのだ――。  急で狭い階段は純己を吸い上げるようにいざなった。まだ昼過ぎなのに受付には人影が見えなかった。そこに女性講師のリンダが通りかかった。 「あら、純己じゃないの!」 「こんにちは、リンダ。お久しぶりです」 「珍しいじゃない、今日は何かしらっ」 「あの、加代さんはいますか? もしかして、交代のお昼休憩ですかね」 「加代はね、あ、そうそう、今日ね、ニックのお父さん、つまり前経営者がここに来てるのよ」 「え……そうなんですか」  確か合宿の時にニックにそういう電話があったな。あれかな。 「まだ体調悪いみたいなのに、あ、それで加代もその応対をしてるの、奥の大きい方の教室よ」 「じゃ、僕が加代さんを呼び出したらお邪魔になりますよね」 「いいわよ、いいわよ、加代も生徒さんが来たら呼んでって言ってたし」 「そうですか、じゃ、そろっと行ってみます」 「ええ、どうぞ。私から聞いたって言ってもいいから」 「ありがとうございます」  純己は奥の教室への廊下を歩きながら、グッドトライクーポンを取り出した。ここの教室を辞めた生徒が使うなんてやっぱり虫のいい話かな。でも一時間無料は有難い……。この際だから交渉してみよう。よしっ。  奥の教室のドアの前に立つと三人の話声が聞こえてきた。ニック、加代、そしてもう一つの男性の声はおそらくニックのお父さんだ。ここの会社の創業者だ。どんな人なんだろう。 「ニック、いい加減にもう結婚してくれ。何回言わせたら気が済むんだ?」 「親父、その件はここで話すべき内容じゃない。何回言ったら分かってくれるんだ?」  ノックするつもりの純己の手が、宙で止まった。    ◇◇ 「分かってないのはそっちじゃないか、ニック。お前はもう三十七になろうとしているような男だ、いいか、身分をわきまえろ、何をいつまで芸能人気取りでいるんだ?」  ニックは手を広げて足を組み直した。 「そんなこと思ってない。そんな下らないことを言うためにわざわざ日本に来たのか?」 「だったら何だってんだ? わしが創業した会社に来て何が悪い?」 「病人はベッドで寝てろと言ってるんだ」  父であるダグラスは盛大なため息をついた。座っている椅子がしなった。額に手を当て首をわざとらしく横に振る。そしていったん広げた腕を胸の前で組み直した。 「率直に言おう。加代と結婚しろ、今すぐにだ、そして子供を作れ、これも急いでもらおう」 「っな、何を言い出すんだ親父っ、頭もいかれたのかっ」 「そんな言い方は加代に失礼だ」 「失礼なのは親父の方だ! 本人の目の前でダシに使うなんて女性を侮辱している」  ニックはこれ以上加代に迷惑をかけたくなった。そして、関わって欲しくなかった。加代の方を向いた。 「加代、すまないが、クソジジイの相手は俺一人で充分だ。仕事に戻ってくれ」 「だめだ、勝手に指示をするな、加代はわしがここへ呼んだんだ」 「なっ……に? どういうことだ!」 「だから言っただろ、お前と加代を結婚させるためにだ!」 「ちょっと待ってくれ、自分が何を言っているのか分かっているのか?」 「バカ息子に言われるまでもなく分かっているさ」 「加代の気持ちはどうなる?」 「加代に聞けばいい」 「親父っ! いい加減にしろ!」 「あ、あの、けんかはやめて下さい、ニックもお父様も、落ち着いて……」  加代が焦って仲裁に入った。 「そうだな、すまない、加代、こんなボケジジイの言うことなんか気にする必要はない。さあ、仕事に戻ってもらって結構だ」 「待て、ニック」 「ここで働く社員は全員俺の部下だ。俺が日々監督をし管理をしている。だから責任も俺にあって命令権も俺にある。親父はもう口を出さないでくれ!」 「じゃ、わしが加代に聞く。これはわしの自由であり権利だ」 「くぅぅぅ……っ」  ダグラスは加代の方を向いた。 「加代はニックのことをどう思っているんだ? 率直に教えてくれ」 「加代、答えなくていい、これは立派なセクハラだ」 「わしは加代に聞いている」 「俺も加代に進言しているんだ」 「わ……私、は、……わ、私でよければニックの、っ、伴侶になることを光栄に思います……」 「ほらみたことか」 「加代、親父に気を使う必要なんてないんだぞ、病身の老人だからといってこんな粗暴な男を可哀想などと思わなくていいんだ」 「いえ……そんな風には思っておりません……お父様は紳士な方です」 「っ……!」  ダグラスはニックを見据えた。 「ニック、お前は加代の気持ちに気付いていなかったのか?」 「な、何を、言うんだっ」 「気付いていたんだな?」 「親父、決めつけたものの言い方はよしてくれっ」 「……わしはお前に意地悪をするためにわざわざ飛行機を乗り継いで来たんじゃない。お前に幸せになって欲しいから医者の反対を無視して来たんだ。わしの起こした会社をお前に譲り、お前は教室の数を倍にした。大したもんだ。よくやってくれた。その手腕はわし以上かもしれん。業界でも注目されている。でもな、妻もいなけりゃ子もいないでは男として格好がつかんだろ」 「そんなことはない、それは親父の価値観だろ!」 「わしはお前が寂しそうに一人で生きている姿を見るのが辛いんだ。家族がいなかったら将来惨めな思いをするのはお前なんだぞ。その時になって後悔しても遅い。親の心を感じてくれ。お前は加代と結婚して跡継ぎを作り、加代と一緒にこの会社をより大きくしていけ。それがお前の幸せだ。加代なら絶対にお前の力になってくれる。うってつけのパートナーだ」  ニックは握りしめた拳の震えを止めることができなかった。父親の言っていることが余りにもまともで反論ができなかったからだ。自分がもし異性愛者なら加代の魅力にいち早く気付いて、もうとっくにデートに誘っていただろう。父親を安心させるためにも会社を大きくしていくためにも、全ての条件が揃っている女性の加代を選ぶことに躊躇はなかっただろう。  でも……俺の好きな人は一人しかいない……純己を心から愛している……。  今、話すべきか。話したら親父は悲しむだろう。寿命も縮まるに違いない。加代にも辛い思いをさせ、社員に広がり、おもしろおかしく言われるかもしれない。 「ニック、なぜ黙っている? 返事は一つしかないはずだ。お前がその歳まで選り好みしすぎたんだよ。加代は美人で機転も利く。社内業務に長けているからお前は思いっきり飛び回って営業ができる。女性としてもビジネスパートナーとしても申し分ないじゃないか」 「親父……待ってくれ」  ニックは腹の底から冷たくて大きな塊が這い上がってくるのを感じた。もう逃げることも誤魔化すこともできない。嘘をつき続けたのは親への、友人への、同僚への優しさのつもりだった。周りが変な気を使わないように、落胆しないようにしてあげているつもりだった。  それは周囲から見ると優しさに映るどころか、狡さに映っていたのだ。偏狭に映っていたのだ。もう自分一人では堪え切れそうにない……。  親父、すまない。もう本当のことを話すよ。すまない……。 「親父にまだ、話してなかったことがある」

ともだちにシェアしよう!