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第七章 せせらぎが聞こえる ②

「おいニック……なぜ、泣いているんだ?」 「ニック、もういいです。お父様、私はもう結構です」  加代が割って入り、はっきりとした口調でそう言った。そして続けた。 「どんな事情があるのか私には分かりません。ですがそこまで追い詰めなくてもいいじゃありませんか。私は経営者としてのニックを尊敬しておりますし、これからもお仕えしたいと思っています。……男性としても、お慕い申し上げている部分も、あります。でも、だからといって無理に結んでいただきたいとまでは思っていません」  その時、廊下の方でドサッという音がした。物が落ちる音だった。リンダか誰かが立ち聞きをしていたのか。加代がドアを引き、廊下を覗き込んで首を右にひねった。 「あらっ、小田さん……どうされたんですか?」 「っ……?!」  ニックは一瞬で血の気が引いた。純己がなぜ。今日ここに来るとは聞いていない。ニックは慌てて廊下に出た。数歩先に純己の姿があった。 「純己っ……!」  純己は咄嗟に何かを体の後ろに隠し、かばんを拾うと強張った顔で走り出した。 「待ってくれ、純己!」 「まだ話は終わってないぞ、ニック! 誰がいたんだ?」  部屋の奥からダグラスの大きい声が響いた。代わりに加代が答えた。 「うちの元生徒さんです」 「元なら明日してもらえ、こっちの方が遥かに大事な用事だ」  ニックは振り返った。 「俺にとっては……俺にとってはもっと大事なことなんだ!」  ニックは純己を追いかけた。階段を下りて左右を見たが、もう純己の姿はなかった。走って駅まで行き、くまなく探したがどこにもいない。  純己は遠慮しがちな性格だ。今の話を聞いて変なことを考えなければいいのだが。とりあえず家だ。純己をこの手で抱きしめるまでは生きた心地がしない。ニックは車の鍵を取りに行くため、狭くて急な階段を駆け上がった。    ◇◇  純己は、隣のビルの陰からニックが駅の方に走って行くのを見届けた。  そのまま路地に入り細い道を歩いた。空は五月晴れでも路地は仄暗い。生ぬるい空気が純己を包んだ。  かつぎ直したトートバッグの取っ手がずっしりと細い肩に食い込む。ニックからもらったテキストが重い。  だよね……。そうだ、そうだ。そうなんだよ……。そういう、こと、なんだよ……。  ニックは僕のこと愛してくれていて一生一緒に生きて行こうって言ってくれた。その愛の言葉に嘘はないと思う。僕も同じ気持ちでいる。それは紛れもない事実なんだよ。  だけど、それは、自分たちが決められることではないんだ。僕たちは真剣でも、真剣さが認められるものではなく、無理矢理お遊びにされてしまうものなんだ。存在しないものとして認識されているんだ。透明恋愛なんだ。  ニックからの着信は無視した。心配させてしまっているのは分かるけど出られない。  ――今なら、まだ間に合う……。身を引くなら今なんだよね……。  会社を大きくしたい、跡継ぎが欲しい、息子に家庭を築いて欲しい……。結局ニックのお父さんの姿を見ることはなかったけれど、お父さんが言っていたことは最もで、理解ができて、無理がない。その通りだと思う……。それが自然の原理なんだ。  ……ほんと馬鹿だよね、本気にしてたなんて。よくよく考えたら分かるじゃん。あんな大きな会社の経営者でニックみたいな素敵な人が僕みたいなただの普通の学生と結ばれるはずがないじゃん。成立したらコントだよ。シンデレラじゃあるまいし、周りが許してくれない。  だからか……。ニックはセックスのとき、挿入しようとはしなかった。ニックは、純己の気持ちがちゃんとほぐれてからじゃないと挿入はしたくないと言っていた。  でもあれはニックの優しい嘘なのかもしれない。ニックは誠実すぎて真っ直ぐすぎて、いずれ別れると分かっている相手にそこまで体の負担をかけるのは申し訳ないと思っていたに違いない。ニックらしい……。  ニックも心のどこかではこういう日が来ることを感じていたんじゃないのかな。  純己の顔や体や若さがタイプだったから恋愛したくなっただけで、本当の意味でのパートナーになろうなんて、そんなこと、思ってなかったんだよ、きっと。  確かに、加代の方がよっぽどお似合いだ……。二人が並んでいると雑誌に出てきそうなカップルに見える。加代はあの会社や教室のこともよく分かっていて仕事もできそうだし、英語も堪能だからニックとの会話にも苦労しない。周囲の人たちもみんな、みんな、みーんな祝福してくれる。英会話業界のモデルケースになる。誰も疑問なんて持たない。  そして、二人がカップルだと宣言しても、誰も笑わない……。  もうどれくらい歩いたんだろう。陽が落ち始めていた。  あ……ここ……。川が見えた。この川は、高校生の時に室川に連れて来てもらった川だ。  室川先輩のアイスが飛んで行った川。渡しそびれたチョコを投げ捨てた川。  迷っていたのは道じゃなくて気持ちの方だった。  純己は土手を下りて川のそばにしゃがんだ。オレンジ色の水面が揺れていた。  ニックにとって一番大事なことは何だろう。純己がニックにしてあげられることは何だろう。どうすればニックは幸せになるのだろう。ニックが幸せになってくれたら、それでいい……。  川から涼しい風が吹いてきた。  ニックの人生から、今、自分が身を引けばいいんだよね、そうなんだよね……。  ベランダで泣きつかれた時のことを思い出すと、純己は思わず頬が緩む。あの時のニックは駄々をこねる子供みたいで可愛かった。うんと年上の人なのになぜかそう思ってしまう。  望遠鏡で僕のこと観察してたなんて……バカみたい。車の中で手をつないでくれたことも……バカみたい。僕の好きなものをリサーチして食事に連れて行ってくれたことも……バカみたい。二人きりになったらすぐにキスしてくることも……バカみたい。  浮かれてた自分が……バカみたい……。  どっちにしても叶わない恋ばっかりしてる自分が……ほんとバカみたい……。  ニックの優しい笑顔が浮かんでくる……。なんでっ、やめてっ。僕にニックの優しさを感じる権利なんてないんだよ。僕に幸せになる権利なんてないんだよ。  でも、でもニックは一緒に幸せになろうって言ってくれた。あれも嘘なの? あれは嘘じゃない。ニックはそんな人じゃない。  ニックは僕を見たらいつもすごく嬉しそうな顔になる。他の男が近づいてくるとすごくやきもちを焼いておかしくなる。一度抱きしめたらなかなか離してくれない。  だから……だから、あの調子なら簡単に僕のことを諦めたりしないはずで、すぐに忘れたりしないはずで、恋愛相手を女性に切り替えたりしないはずで……。  だって、そう思うんだから仕方ないじゃん。僕はそう感じるんだもん。僕から身を引いたって追いかけてくる人だもん。僕のことを探してまた迎えに来てくれる人だもん。そう思うんだもん。  だから……お願い……、そうであって……、欲しい。お願い、ニック……。  僕のこと……一人にしないで……また一人になっちゃうよ……。  純己の涙がオレンジ色に光りながら膝を抱えた手の上へ落ちた。ぽた、ぽた、と雫の数が増えていく。鼻をすすって、ポケットからクーポン券を取り出した。 「ニック……僕は、どうしたら、いい……?」  純己は顔を膝に埋めた。その拍子にクーポン券をくしゃっと手の平でつぶした。  やっぱり大好きだよ、愛しているよ、ずっとそばにいたいよ、ニック。どうしたら僕はニックのパートナーになれるの。どうすればニックと人生を一緒に歩めるの。教えて。  全部失くしてもいい、全部奪われてもいい、だからニックだけは僕から盗らないで。ニックだけは僕に残しておいて。お願い、世界の方が変わって。そこだけは、それだけは譲れないよ……。ニックは……ニックは僕のものなんだから!  その時、純己の視界の暗闇の奥から微かに声が聞こえた。純己を呼ぶ声……。頭の中でニックの声が聞こえる。ニックが純己の名前を呼ぶ声……。聞き慣れている声のはずなのに、遠くから呼んでいるような声に聞こえる。夢の中にいるのかもしれない。いろいろあって疲れて眠ってしまったのかな。 「……すー、みー、……き……」  ニック、僕はここだよ、早く見つけて、お願い……。 「お、い、どーこーだーっ、すみーきー」  だんだん声が大きくなってくる。変な夢だなあ。あれ、川のせせらぎもちゃんと聞こえる。自転車の鈴の音も犬の鳴き声もちゃんと聞こえる。 「純己ぃぃっ、純己っ、いるのかっ」  純己は頭を起こした。……夢、じゃない。ニックの声だ。純己の体の奥の芯が震えた。恐る恐る立ち上がり、川上の方に振り返った。と、その時、土手の草むらのすぐ上に険しい顔をしたニックが見えた。 「純己! いたら返事をしてくれ! 純己!」  純己の視界が透明に揺らめき始めた。ニックの姿がぼやける。でもニックの姿が近づいて来るのが分かった。純己の頬に熱い雫が伝った瞬間、ニックと目が合った。ニックの動きが一瞬止まったが、全速力で純己に向かって走って来た。  純己の顔が歪んだ。 「純己っ!」 「ニック……」  ニックは純己を抱きしめた。 「ニック……僕、ごめ、」 「何も言うな」  純己はニックの胸で声を出して泣いた。 「バカだな、純己は」 「……だって……」  ニックは純己の頭にも手を回した。 「俺以上にバカだよ」 「……ご、めん、なさい……」 「お前が好きに決まってるだろ。さっきの話は気にするな。親父が勝手に言ってることだ。俺は……お前以外は何もいらないんだ、純己以外は何も……」 「ニック……僕も……僕もニックがいい……ニック以外何もいらない」 「約束してくれ純己。もう二度とこんな真似はしないって」 「うん…………」 「純己がいなかったら……いなかったら……俺の人生はないのと同じだ」  ニックの涙声が純己の耳に直接届いた。 「僕も……ニックのこと、忘れるなんて、できない……ニックがいないと、生きていけないよ」 「ああ、お互い様だ」  ニックは純己の全てを包み込むようにギュッと抱きしめた。  しばらくしてニックは純己の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。 「今度は俺の番だ」  そう言ってニックは純己の涙を指で拭った。純己は弱々しく微笑んだ。 「純己はその顔の方がいい」 「ニックだって、ほら」  純己はそう言ってニックの頬を指で拭った。途端、ニックの頬に何かがくっ付いた。 「ぁ……っ」 「んん、何だ、なんかチクっとしたぞ」  ニックは自分の頬にくっ付いたものを取って、見た。ニックの目が少し大きくなった。 「純己……この券は……」  純己の頬が夕焼けより濃い色に染まった。ニックは笑顔のまま口を開いた。 「……行こう、今から」 「……ぇ……どこ、に?」 「俺の英会話教室にだ」  純己はニックに手を引かれ土手を上り、路肩に停めてあったレンジローバーに乗り、教室に向かった。

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