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第八章 お城へ続く階段 ①

 ニックは、日本では高級と言われているドイツの洋菓子を買った。女性に人気と聞いたので純己の母親と妹も喜んでくれるだろうと思った。イギリスの王室御用達と呼ばれている専門店から紅茶のセットも取り寄せた。  母国アメリカで有名なブランドの茶系のジャケットをノータイのシャツの上に羽織り、細身の黒のパンツで合わせた。これなら堅くなりすぎず、しかも訪問先に失礼にならないだろう。  近くの駅で待ち合わせた純己もいつもよりきれい目な服装だった。淡いブルー系の襟付きシャツにオフホワイトのニットを重ねていて、ネイビーのアンクルパンツが純己の雰囲気によく合っていた。  純己は家族にニックを迎えに行くと言って駅まで来てくれたようだ。家族と一緒に待つよりニックと二人で改めて家に入る方が緊張が和らぐと言っていた。  車中の会話が少ないまま純己の家の前に到着し、ニックはレンジローバーを路肩に停めた。 「ようこそ、こんな狭いところですが、どうぞ」  思っていたよりも純己の母親と妹はフレンドリーに迎えてくれた。お土産への反応も良く、喜んでくれたので安心した。  お菓子と紅茶の味を楽しみながら、世間話を純己の通訳でし始めてしばらくした頃、ニックはカップを置いた。ここからの大事な内容は日本語で話そうと思った。 「お母さん、美菜さん、お聞きになっているかもしれませんが、私は純己さんと真剣にお付き合いをしています。同性同士なのでおかしいと思われることもあるかもしれませんが、ともに人生を末永く生きていくと決めていますので、どうか認めて下さい。お願いいたします」  ニックが頭を下げると純己も一緒に下げてくれた。 「ニックさん、顔を上げて下さい」  母親の典子の声が穏やかに響いた。ニックと純己は顔を上げた。 「こんな子で良かったらいつでも持って行って下さい」 「えっ……あ、は、はい」  ニックは予想外の返答に驚き、言葉が途切れた。 「うちはずっと母子家庭でこの子にも寂しい思いをさせて来ました。母親の私が言うのもおかしいのですが、この子は文句ひとつ言わずに家事も率先してやってくれてるので、そういう意味ではできた息子だと思っています。だからというわけではないのですが、この子が心からいいと思う人なのであれば、私は何の疑問もありません。同性とかそういうのは私はどっちでもいいです。ニックさんのような方でしたら喜んでこの子をお渡しします。ね、美菜」 「はい、私も同じ気持ちです。家事をしてくれる手が減るのは痛いですけど、兄が幸せになるんだったら全然大丈夫です。ふつつかな兄ですが、どうぞよろしくお願いしますっ」  そう言って二人は微笑みながら頭を下げてくれた。 「あ、ありがとうございます! 顔を上げて下さい。必ず純己さんを幸せにします!」  ニックは純己と顔を見合わせた。純己の瞳がじわっと潤んでいた。  典子は表情を険しくし、純己の方を見据えた。 「純己、ここまでニックさんが言ってくれてんだから、あんたもその思いに応えないとダメだよ。分かってんの?」 「うん、分かってる」 「それと、ニックさんの前であれだけど、ここから出て行くのはあんたの自由だけど、生活費は今まで通り入れてよ、ぎりぎりなんだからこっちも」 「それは私からもお願いしとくね、お兄ちゃん、っていうかそれは必須でよろしく」 「わ、分かってるって、そんなこと今言わなくてもいいじゃんっ」  三人が口論をしかけたので、ニックが割って入った。 「待って下さい、お母さん、美菜さん、純己の分くらいは私が出しますから」  三人から「それは申し訳ないのでいい」と同時に反論された。 「ちなみにいくら必要なんですか?」  ニックが思わず聞き返すと、美菜が数万円の金額を口にした。純己は慌てて止めたが、ニックにとっては鼻で笑ってしまいそうな金額だったので、逆に提案した。 「じゃ、こうしましょう。純己が働いて稼いだ中から必要な金額を実家に入れる。純己の生活は私がちゃんと見ます。パートナーなのでこれくらいはさせて下さい」  三人は急に静かになったので暗黙で受け入れてくれたようだった。  それから日本で一番高級だと言われているホテルでの食事会を提案した。典子と美菜は飛び上がるように喜んでくれたので外堀はちゃんと埋まりそうだった。  夕方からは純己がラジオ番組の収録があったので、二人で純己の実家を後にした。車中でも純己は感謝の言葉をいろいろ言ってくれたが、ニックにとっては何ということもなく、こんなにあっさりと純己の家族を味方に付けられた安心の方が遥かに勝っていた。  途中の駅で純己を下ろし、ニックは父親のことも気になるのでいったん教室に戻ると伝えた。収録が終わってニックも仕事が残ってなければ迎えに行くということになった。  教室に戻ると、加代がちょうど事務室から出て来た。 「ああ、ニック、ちょうど良かったです」 「どうかしたか?」 「お父様がここには寄らずにもうアメリカに戻られると連絡が私にありました」 「そうか、なら良かった」 「私からもニックにせめてお別れのあいさつをと言ったのですが、断られました」 「こちらの手間も省けたのでそれでいい。むしろ加代に変な気を使わせてしまった」 「それは大丈夫です。あっ、それと、あの、ニックには黙っていてくれと言われたのですが」 「なんだ? 何か余計なことを思い付いたかあの親父は」 「タケル・キシノさんのラジオ番組に出演してから帰国するらしいのです……」 「ええっ、何だと、あの親父め、充分元気じゃないか。それにタケルも俺には何も言ってないぞ、そんなこと」 「お父様が口止めされているらしいです……大丈夫かしら?」 「ったく、昔から何でもかんでも秘密にするんだよ、あの親父は……あっ!」  ニックは思わず叫んだ。 「どうかされました?」  ラジオの収録……今日……純己と遭遇する……かもしれない、いや確実にそうなる。お互いに顔は知らない。でももしそういう話になって素性が分かって親父が純己に何か不愉快なことでも言ったら……俺は我慢ができないだろう。 「な、何でもない、あ、それと俺の今日の予定は基本的にはフリーだったな?」 「えっとですね、予定見ますね……そうですね、ニックが事務仕事だけしたいっておっしゃってたので、その予定だけですね」 「ああそうか、ならいい、事務仕事はいつでもできる。悪いが今から出て来る、今日はもう戻らないと思うので後はすまないがよろしく頼むっ」  ニックは加代の返事を聞く前に教室を飛び出していた。    ◇◇  純己は、スタジオまでの道を英字新聞を読みながら歩いていた。今日の収録の課題でもある時事問題の研究発表のためだ。  抜粋する記事を確認できたので新聞を畳んでいると、英語で声をかけられた。 「すみませんが、道をお訪ねしてもよろしいですかな?」  見ると六十代くらいの欧米人男性が簡単な地図をコピーした紙を持って立っていた。背が高くて姿勢も良く、品と知性を感じる雰囲気で、昔はハンサムだったろうなと思わせる顔立ちだった。そして目に力があった。 「あ、はい、僕でよろしければ」  見せられた地図にマーキングしていたカフェは、収録スタジオが入るビルの真向かいの建物の一階にあることがすぐに分かった。 「ここなら、僕の向かっている場所のすぐ前なので、よろしければご一緒に」  純己は笑顔でそう答えた。 「それは奇遇ですな。ご親切にどうも。この歳になるとどうも慣れない場所は困る」 「そうですよね、分かります」 「いやあ、あなたが英字新聞を読んでいたのでこの人なら英語で答えてもらえるだろうと期待していましたが期待を超えましたな。かなり英語がお上手なようだ」 「そんなっ、ありがとうございます」 「もしかして英語圏育ちですかな?」 「いえ、日本生まれ日本育ちです。留学もしたことないんですっ」 「これは驚いた。お若いのにその英語のスキルは何で磨いたのですか?」 「ほぼ独学ですが、今は、その、お付き合いしている方といつも英語で会話しているのでそれもあるかもしれません」 「ほう、なるほど、恋人が外国人ならその言語をマスターしやすいというあれですな」 「ふふふ、そうですね、だと思います」 「学生さんだとお見受けしますが、将来は英語を使ったお仕事をなさるんでしょうな?」 「はい、そう思ってます。通訳でも貿易でもとにかく英語のスキルを活かしたいですね」 「それはいいことです。それと、英語教育に携わるってのもあなたならいいかもしれないな」 「それも素晴らしいですね。実は僕の恋人は英語教育に携わっていてすごく素敵な仕事だなって思ってます。僕はその人を社会人としても尊敬してます。あっ、すみません、こんなこと」 「いやいや、幸せそうで何よりだ。恋人を尊敬しているというのは大事なことだ。あなたの恋人はさぞ幸せでしょうな」 「そうなんですかね」 「そりゃそうだ。あなたのような可愛らしい、あ、失礼、聡明で真面目そうな人に尊敬されるということは、その恋人もそれを感じていてあなたを離さないでしょうな」 「だといいんですけど。僕もずっと寄り添うつもりです」  カフェが見えてきた。 「私は時間待ちでね、カフェで時間を潰すんです。あなたは時間がないのかな? もし時間があればカフェにお誘いしたいところなんだが」 「お気遣いいただきありがとうございます。それが、とても残念なのですが、もうアルバイトの時間なんです。僕もお話をもっとお聞きしたかったです」 「やれやれ、お別れの時が来たようだ。私ももう少しお話がしたかったよ」 「本当にすみません。ありがとうございます」 「最後にお名前をお聞きしてもよろしいかな? もしあなたをどこかの街でお見かけした時に声をかけられるようにしておきたいのでね」  その高齢男性はウインクをした。 「はい、喜んで。僕は小田純己と申します」 「……スミキ?」 「はい、オダが苗字で、スミキが名前です」 「…………」  その高齢男性は眉間にしわを寄せて黙った。 「あの、どうかされ、まし、たか?」 「……いや、何でもないよ」 「あの、よろしければ、僕もあなたのお名前を……」 「見ての通り私は名乗る程の者ではないよ。ただのじいさんだ」 「そんなことありませんっ。とても若々しくて素敵な方だと思いますっ」 「お口もお上手だとお見受けするが」 「お世辞ではないですっ。もし、お見かけしたら僕もお声を、」 「ダグラスだ……。苗字はもうどこか遠い所に忘れて来たよ」 「ふふっ、分かりました。ダグラスさんですね」  純己の目の前に急に手が差し出された。その勢いと手の大きさや雰囲気、差し出すタイミングがどこかで見たことのあるような気がした。でも高齢の欧米人男性と握手をした記憶はない。純己が手を出すと、一気に手に熱いものを感じた。純己の胸がドキリとした。  ニックの握手の時の熱と同じだ……。温度が似ている。握手をしながらの満面の笑顔も何となく似ている気がする……。それに声がどことなく、どこかで聞いたことがあるような気がした。でもダグラスのような紳士的で穏やかな声なら映画でたくさん聴いているのでそのせいか。 「純己とまたお会いできる気がしているのは、私だけかな?」 「いえ、僕もそう感じています。またどこかでお会いできるといいですね」  ダグラスは名残惜しそうに手を離すと、ふっと哀しそうな顔をしてカフェの中へと入って行った。束の間の出会いなのに別れを惜しんでくれるなんて、改めて素敵な方だなと思いながら、純己も逆の方向に振り返り収録スタジオのあるビルに入った。

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