27 / 32

第八章 お城へ続く階段 ③

 開け放たれているリビングの大きな窓の向こうにプールが見えた。街並みをタクシーで走っている時から感じていたが、テレビでしか見たことがない光景に驚きすぎて、純己は言葉がずっと出ていなかった。  テーブルの上には、透明な大きな瓶に氷とレモンとライムの輪切りが入った炭酸水、色とりどりの野菜が盛られたサラダ、いろんな形のパン、生ハム、パッションフルーツが所狭しと並べられていた。何とも言えないスパイスと調和したチキンの焼ける匂いが立ち込めていた。  リビングの向こう側でドアの開く音が聞こえた。純己は、少し身を固くした。  ニックのお父さんが来るのだ。ニックの会社の創業者でもある人だ。どんな人なんだろう。   教室では純己が走り去ってしまったことで結果的に会えなかったが、やっとお会いできると思うと楽しみの方が勝ってしまう。  ニックが立ちあがって部屋の向こうを見て声をかけている。純己の座っている位置からは向こう側の部屋が見えなかったが、純己も立ち上がった。 「親父、こういう時くらい出迎えてくれたっていいじゃないか、初対面のお客さんだぞ」 「お前に指示など受けたくないね、わしはわしの意思で動くんだ」  と言いながら姿が現れた。その瞬間、純己は、息が止まりかけた。  あれ、見たことあるっ……ていうか、数カ月前に道案内した人だ。  確か、ダグ、ラスさん……。えっ、この人がニックのお父さん……っ?  ダグラスは、放心状態の純己と違って案外冷静な反応を見せた。 「おお、やはり……またお会いできたようだね、純己」 「は、はい……やはり、あの時の……」 「えっ、ど、ド、どういうことだっ!?」  ニックは目を見開いて手を広げた、メイシーとブリジットも手を止めてこちらを見た。 「お前は黙ってろニック、今から説明する。……わしは、君の名前が純己と聞いて、息子が口にしていた名前を思い出したんだ。もしかしたらって、ね」 「は、はい……」  純己は、教室の前で聞いた会話を思い出した。ダグラスという名前は聞いていなかったが、ニックの父親が、ニックに加代と結婚して子供を儲けろと執拗に迫っていた。つまりは同性愛なんて認めるわけもなく、息子のニックには普通に家庭を築いて欲しいと考える立場なのだ。  それを思い出し、道案内した時の紳士なダグラスの姿がだんだんと薄らいでいった。 「ラジオ番組の収録の最終日に駅からの道に迷って、たまたま英字新聞を読んでいた純己に声をかけて道案内をしてもらったのさ。それがわしと純己の最初の出会いだ」  ニックが心配そうに純己を窺ってきた。純己は精一杯、相手を気遣う表情を心掛けた。  ニックはまたダグラスを睨んだ。 「親父が収録の出演をドタキャンした日だな」 「ああそういうこともあったな。でもお前が上場の宣伝にちゃっかり利用していたじゃないか」 「そっ、それは親父の穴埋めをしたんだろうが」 「どうあれだ、わしはわしの考え方でしか動かない。それだけは言っておく」 「あのなぁっ……」  怒るニックを無視すように、ダグラスは純己に笑顔を向けた。 「さあ、掛けてくれ、純己、メイシーのスパイシーチキンは最高なんだ」 「え、ええ、ありがとうございます……」  純己は時々ダグラスの表情を窺ったが、自分に対して嫌悪感を持っているようには見えなかった。むしろ歓迎して喜んでくれているようにも見えた。家族の前だから気を使ってくれているのだろうか。  食事が終わって、メイシーとブリジットは後片付けを始め、純己はニックと庭の見える居間でカフェオレを飲みながら世間話に花を咲かせていた。  ニックがトイレに立った時、ダグラスが純己の隣に来て、テラスに出ようと誘ってきた。素直に従ってカップを持ったままテラスに出た。  緑の芝生が広がる庭に白い机と白い椅子が穏やかな太陽に照らされていた。眩しいくらいのきれいな光景だったが、純己の中に走った緊張はすぐに拭えなかった。  何を言われるのだろう……。ニックとの仲を反対されるのだとして、こんな場所で静かに話をされたら、逆に反論なんてできそうにない……。ニック早く戻って来て。 「純己、まずは謝りたいことがある」  カップを置いたダグラスが口を開いた。 「え……はい」 「わしとニックと加代の会話を聞かせてしまったようだね」 「は、はい……でも、僕も、」 「いや、いいんだ、純己は悪くないさ」  ダグラスは穏やかな瞳を向けてきた。純己は、視線の雰囲気や言葉の運び方がニックとやはり似ていると思ってしまい、少しうっとりしかける自分を制した。 「悪いのはわしだ……。心が狭かったことを反省している」  ダグラスは眩しそうに庭の方を見つめた。横顔もやっぱりニックと似ている……。親子なんだから当たり前か……。ニックが歳を重ねるとこんな顔になるのかな、だとしたら素敵な歳の重ね方だな。  でも……そんなこと思ってる場合じゃない……。 「純己がこんなにいい青年なら認めざるをえないよ」 「えっ……? い、いえ、そんな……僕なんて」 「勘違いされる前に言い訳をさせて欲しい。わしは、父親としてニックが孤独に生きて行くのが辛かっただけなんだ」 「はい、分かっております」 「ブリジットはもう二人も子供がいて夫ともなんとかうまくやっている。わしは決して孫が欲しいわけじゃない。息子のニックが可哀想だった。ビジネスの手腕があってもそれは体が元気な時だけで、歳がいくとパートナーや家族が大事になるんだ」 「ええ、そうですね」 「聡明な君なら分かってくれると信じてるよ」 「はい」 「純己なら、わしも安心だ」 「……え……それ、は……」  純己は胸の奥から堪え切れない温かいものが上がってくるのを感じた。 「あ、ありがとうございます……」 「涙は見せないでくれ」  ダグラスは純己の頬を指で拭った。 「え……いえ、あの、大丈夫です」 「わしは君を歓迎するよ。純己が家族になってくれるなら嬉しい」  ダグラスはテーブルに肘を置いて、じっと純己を見つめた。純己は少し戸惑った。  認めてもらえたのは光栄だけど、ここまで歓迎されるとは思っていなかった……。 「君の瞳はきれいだ、宝石にしていつも身に付けておきたいよ」 「え……っ」 「良かったら庭の奥に咲いているガーベラを見せたい。うちの庭にはずっとピンク色のガーベラしか咲かなかったのに、最近になって一本だけ白色のガーベラが咲いてね。まるでそれが君のようなんだ」 「……え、」 「ガーベラの花言葉を知っているかい?」 「いえ、存じていません……」 「神秘という意味があるらしいんだ。まるで私と君の出会い方のようだとは思わないかい?」 「……っそうですね、偶然だった、ですものねっ」 「さあ、行こう、私にエスコートさせてくれ」 「あ、は、はい」  ダグラスは片手を純己の方に差し出した。握手ではない方向に傾けられている。どう見ても手をつないで歩こうと言われている気がして純己がきょとんとしていると、 「そこまでだ」  冷静で力の入った声が背後から聞こえた。振り向くと、ニックが庭に続く窓の冊子にもたれて腕を組んで立っていた。ダグラスがオーマイゴッドの手付きをした。 「親父、手をつなぐ必要はない」 「お前いたのか、お前もメイシーたちを手伝ってやれ。わしは自分がこけないように純己に介助をお願いしようと思っていただけだ。わしは本来ベッドで寝ていなきゃいけない病人の老人らしいからな、そうだったな?」 「うるさい。とにかく、純己に今の話をしてくれたことは感謝する、ありがとう」 「お前に礼を言われる筋合いはない。あくまで、わしから純己への言葉だ」 「はいはい、じゃ、純己はこちらに戻してもらおう」 「今から純己と花を見に行くところだ。歩く介助をしてもらわないと行けないんだ。邪魔をしないでくれ」 「何が介助だよ、オーバーな」  ニックは半ば強引に純己の手を引いて家の中に連れ戻した。  ブリジットお手製のケーキを食べてしばらくしてニックがそろそろロスに行くと言い始めた。メイシーとブリジットに玄関で別れの言葉を告げていると、ダグラスがメモ用紙を渡してきた。開くと携帯番号が書かれていた。何かあればすぐに相談して欲しいと言われた。お礼を言うと、ダグラスが純己を抱きしめた。 「純己、今度は一人で遊びにおいで。ガーベラはこれからが満開だからね」  と囁かれたが、同時にニックの舌打ちが横から聞こえた。 「はい、機会があればぜひ。ごちそうさまでした、ありがとうございました」  そう感謝を笑顔で伝えた。 「じゃ、上場パーティで会おう」  とニックが家族に伝え、タクシーに乗り込んだ。  車中でメモを見せてくれと言われて見せると、携帯番号くらいならいいだろうということになった。でも父親と連携するときは教えてくれと言われた。 「お父さん、どうしてあそこまで良くしてくれるのかな」 「さあ、俺たち家族でも親父の全容は未だに掴めないんだ」  純己は、ふふふっと笑った。でも、眼差しや温度や言葉の響きがニックに似ていたことは確かだった。  数十年後も、あのテラスでニックに同じことを言われていたい。その予行練習のような気がした。純己はその時も今と変わらず、あの愛の言葉を受け止めるだろうと思った。  年齢じゃないんだ。容姿は変わっても愛が変わらなければ、純己は幸せだと思った。  未来のニックを想像して、ダグラスの熱のこもった視線にうっとりしかけたことは、やはり純己だけの秘密にしておこうと思った。

ともだちにシェアしよう!