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#1-2

 そして、時は現在。  九月だというのにセミの鳴き声がいつまでも止まず、熱気がまとわりついてくるような日の夕暮れ時に、仲良くなった先生の手伝いで俺は生物準備室に居た。 「うわ……先生、これ大量にあるけど何ですか?」 「ああ、それは豚の目玉。授業で使うんだよ。二年になったらお前も、“解剖とか超エモくて楽しみすぎじゃね”なんて訳分からんこと言い出すぞ」  保存容器の中に入った濁った瞳たちが俺を見つめていた。 「えぇ……俺無理かも」 「そしたら“1”付けてやるから安心しろ。ほら今日は終わりだ。鍵閉めるぞ」 「お前たち、来年は元気な姿で会おうな」  ピクリとも動かぬ大観衆に別れを告げ、冷蔵庫のドアを閉める。椅子にかけたカバンを背負い、教室を出た。  先生は慣れた手つきで準備室の鍵をかけると、隣の教室を覗いて中に居る生徒に声をかけた。 「仁科(にしな)、ここももう閉めるぞ」 「はい」  仁科と呼ばれた生徒が顔を上げる。直後、俺の脳内で大爆発が起きた。  ――居た。俺が探し求めていた者が、そこに。  薄すぎず、濃すぎず、細すぎず、太すぎず。眉頭から眉尻までの長さ、目とのバランス、位置に角度。 「おめでとう。お前の探していたものはここだ」と、その眉はさながらゴールテープのようだった。いや、既にゴールテープは切られていた――だからつまり、一文字に繋がってる眉じゃないってことだ。  “唯一無二の究極の眉”を持つその男は、物置部屋と化した教室で一人、山積みの段ボールに囲まれてこちらを見ていた。     §  念願の出会いを果たしたというのに、俺は頭が真っ白になり、俺に話しかけてくる先生の言葉もまったく頭に入ってこず、気付いた時には駆け出していた。  多分あのままあの場にいたら、俺はこの世にいなかったかもしれない。それくらい興奮していた。  家に着くなり俺はベッドにうつ伏せに倒れ込んで、恍惚感と喜びを目いっぱいさらけ出す為に枕に顔を埋めて叫んだりじたばたした。  しかし、そんな程度で気持ちが収まるはずもなく、を取るに至った。 (これは不可抗力であって普段ならこんなことしないし、ましてや逃げたりだってしない……けど)  名前を呼ばれてゆっくりとこちらを向いたあの顔を、眉を、それはもう8K大画面で鮮明に思い出して一発ヌいた。  恍惚感を消費した矢先、焦燥感とも喪失感とも言えない感覚が湧き上がっていた。 「いや……いやいやいや何してるんだ俺は」  冷静になってみると、同じ学校に通っている生徒をオカズにした事実に恥ずかしさが込み上げ、感情がパレードのように押し寄せてくる。  いや、でもあれは俺にとって間違いなく絶品だし……というところまで流れるように考えてさらに恥ずかしくなり、俺はもう一度叫んだ。     §  それからしばらくは、あの時のことしか考えられなかった。風呂に入っていても、家族と夕飯を食べていても、俺を見るあの眉と目が何度もフラッシュバックして気が気じゃなかった。  ようやく冷静になれたのは、またベッドに倒れこんだ頃だ。 (仁科って呼ばれてたな)  同じクラスにはいないし、高校に入ってから今まで話した人――というか、眉の記憶にも無い。  上級生だろうか。せめてワイシャツの襟に入ったラインを見ておけば、色の違いで学年だけでも分かったのに。いや、名前は分かっているんだ。また明日もあの教室にいるかもしれない。  先生に尋ねることも考えたけれど、やめた。  ずっと一人で探してきたんだ。探し求めてきたなら、自力で手に入れてこそだろう。ほんの少しでもこの気持ちを誰かになんて明かさない。あいつだけ、仁科だけが知っていればいい。

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