5 / 29

#1-5

 仁科を観察し始めてから一週間後、俺は生物準備室でホルマリン漬けにされたヘビと向き合っていた。 「それで終わりだ。遅くまで悪いな。鍵は先生が返しておくから、お前はもう帰れ。遅くまでありがとな、赤星(あかほし)」 「先生こそ美人な奥さんと産まれたばかりの可愛い娘さんが待ってるんでしょ。早く帰ってあげてください。鍵くらい俺が返しておきますって」  外はもう暗くなっていた。隣の教室の電気も消えている。仁科は帰ってしまったのだろう。 「はいはい、生意気だねえ。生徒ってのは、一体どこから教師の情報を仕入れるんだか」 「ま、俺は色んな人と話しますからね。ほら、先生サヨーナラ」 「まったく。気をつけて帰れよ」  先生も、と声をかけその背中を見送る。  仁科はしばらく隣の教室に来なかったけれど、今日は来ていたようだった。だから今日こそはここで話をしようと思っていたのに、それは叶わなかった。  鍵を返して俺も早く帰ろう。     §  職員室のドアに手をかける。磨りガラスの窓から光が漏れていた。残業中の先生がいるのかもしれない。見つかって声をかけられるのも面倒だ。  静かにドアを開け、入口脇のキーボックスがある場所へと進む。そこにはこの一週間ひたすら目で追いかけ続けていた眉――もとい人物がいた。 「仁科?」  半ばストーカーまがいの一週間を過ごしていた俺は、思い焦がれた人物を前に思わずその名前を声に出してしまった。  まずい、と咄嗟に口を塞いだけれど、ただただ無意味――というよりも「えっ、あの仁科がどうして!?」とでも言わんばかりの演出になってしまった。  しかし、突然名前を呼ばれたというのに、特に驚く素振りもなく仁科はゆっくりとこちらに顔を向ける。間近で見ると、完璧な眉と整った顔立ちがはっきりと分かった。 「どうかした?」  ああ仁科が初めて俺に話しかけている――とかそんなことを実感している場合ではない。  どうかしたいくらいだ。俺はこいつの眉をネタに青春を一発(ほとばし)らせたんだぞ。絶対知らないだろうし、知られたらまずいが。  思い出したら恥ずかしくなってきた。 「鍵」  ――鍵を返しに、そう言ったつもりがほとんど声になっていなかった。 「へえ」  俺の手で揺れる鍵を見て仁科が静かに呟いた。 「なら一緒に帰ろう」 「は?」  思ってもみなかった提案に心臓が跳ねる。 「帰るよね」  仁科は眉ひとつ動かさなかったけれど、俺の気持ちも、考えも、何をしていたのかも全て分かっているように見えた。  なるほど、これが眉毛を読まれたような気分か。 「あの……そう……だな」  断れるわけがなかった。だって仁科は、俺が言い淀んだ時に一瞬だけ眉を(ひそ)めた。  無意識の一瞬が心底不愉快だった。この究極の眉が俺に初めて見せる表情が“不快感”だなんて、許せない。  あの日見た時からずっと近づきたいと思っていたのに、たくさん時間をかけて考えたのに、俺はこのチャンスを、抑えられるはずの緊張で潰すところだった。 「それ、しまう。貸して」  言われた通り生物準備室の鍵を渡す。仁科がキーボックスのダイヤル錠をかけている間も、俺はふつふつと沸いてくる自身への怒りを感じていた。  誰とでも話が出来ると思っていた俺にとって、仁科は特別な存在だ。理想を前に、こんなに気持ちが落ち着かないなんて思っていなかった。  今までだって綺麗な眉だと思う人は何人も見てきた。その誰とでも仲良くなれたし、向き合えないなんてこともなかった。それがどうして仁科にだけ。大丈夫、俺なら出来る。  “眉”なんてのは人のたったの一部分でしかない。それなのに、そこに惹かれるんだ。俺は確かに“眉フェチ”だ。 フェティシズムを感じると言いながら、十年以上も前から探していた唯一無二の究極の眉を前に何故迷う必要があるのか。それが向こうから俺を迎えようとしているのに。  こいつに倒錯するなら徹底的にすればいい。その先に何があろうとも。

ともだちにシェアしよう!