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#2-2

 蝉が鳴き始め、梅雨が明けた薄っすらと夏の暑さが感じられる七月初旬の放課後。  いつも通りの人通りも街灯もほとんど無い帰り道を抜けて、住宅街の道に差し掛かったところで―― 「お兄ちゃん、おかえりー!」  と、前方から元気な声が響いてきた。  足を止めて進行方向を見ると、同じ高校の制服を着た学生とその弟らしき少年が話をしている横でハーネスを着けられた柴犬がおすわりをしていた。  ワイシャツの襟に入った線の色が青い。自分と同じ一年生だ。  何故かその光景に幼い頃の兄と自分を思い出し、目が離せなかった。 「ただいま。統司(とうじ)は何してたんだ?」  少年に話しかける声はとても優しい。 「えっとね、ポン吉とボールで遊んでた!」 「そっか。でも道路に出るのは危ないからさ、お兄ちゃんとポン吉と一緒に庭で遊ぼうか。な?」  話している最中、よく手が動く。きっと弟の大袈裟な動きに合わせて、自然と身振り手振りを交えて話してしまうのだろう。 「うん。あっ、ねえ、あの子もお兄ちゃんと同じ制服着てるよ。お兄ちゃんのお友達かな」  少年がこちらを指さして言う。遠目からその光景を見てはいたものの、まさか話題に上がるとは思ってもみなかった。 「んー?」  その言葉を受け、彼は少しだけこちらへ振り向いて、また目の前に向き直った。 「ああ、ほんとだ。同じ制服だな。でも、まだお友達になってない人みたいだ。だから今日はお兄ちゃんで我慢な」 「うん、じゃあボク、ポン吉と庭で待ってるね!」  その視線はまるで針で刺すような一撃だった。ほんの一瞬の強い感覚を一目で感じた。  ――(たが)が外れるきっかけなんて、そんなものだ。  何もかもを知り尽くしたい。彼を形作るものがなんであるかとか秘められた本質だとか。  何者にも(いだ)いたことのないこれ程までに強い知への欲求は、たちまち広がって心を埋め尽くし、彼に対するあらゆる感情を生んだ。     §  抑えられない欲を抱えて、彼を知ることを始めた。これまで気にも留めなかったというのに、一度知ってしまうと、途端にそれがはっきりと見えるようになる。  まず名前を知った。それが曖昧な有象無象の群れを抜けて、彼を一人の人間として、この静かで騒がしい世界へ存在させ続けるために必要な唯一の手段だった。  苗字は表札を見て“赤星”だということを知っている。  あとは名前だけだったけれど、幸いなことに彼はよく人に話しかけ、そして話しかけられていた。“赤星 紅緒”という名に至るまでに時間はかからなかった。  そこから先は、ただずっと観察するだけ。仕草、癖、言葉を出来る限り捉えた。有り体に言えば、距離を保って見ているだけのストーカーだ。  こうして彼――紅緒を見ているうちに、自然とその視線が人の目ではなく眉を見ていることに気付いた。  そこに何か強い意志を感じた。それに気付けたのは、彼の中に自分に似たような探求心を感じたからかもしれない。  より一層紅緒のことが知りたくなった。     §  だから夏休みに入り、伸びていた髪を切った。自分を見てもらいたいという考えではなく、彼をもっと知るための手段になればいいと思っただけだった。  時折、こんな遠回りなことなどせず、自分から声をかければいいだけだと、感情と意識の差が生まれることがあった。  けれど、それでは面白くない。あくまでもこの感情の根幹にあるのは、“赤星 紅緒”という一人の人間に対する尽きることの無い知識欲だ。  どうするか。どうしたいか。どう思うか。その反応も全て紅緒から知りたい。ましてやその領域に深く入り込むならば、尚のこと答えにたどり着く一歩手前でその時を待っていたい。

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