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#2-3

 二学期が始まり、育児休暇を取ったという担任に代わって生物を受け持つ教師が代理の担任になった。紅緒はこの生物教師ともすぐに打ち解けて、放課後に何度か手伝いをしているようだった。  今日もその約束をしている。このチャンスを逃してはいけないと、そこに付け込むことにした。 「伏見先生」 「ん? あー……えっと、悪いな。まだ苗字も覚えきれてなくて」 「仁科です」  一週間と少し経っていたけれど、先生はこれから受け持つクラスの生徒の区別もまだ付いていない。  それなのに、手伝いを申し出る彼が“赤星”という生徒であることは覚えていた。彼は自分を知ってもらうのが上手い。 「生物準備室の横の教室を借りたいんですが」 「あそこはただの物置だぞ?」 「少し用があって。構いませんか」  物置でもなんでも良い。用があるのは場所にではない。 「まあ、構わないけど……じゃあ開けとくから、段ボールとかむやみに触らないようにな。危ないから」 「はい。ありがとうございます」  深く考えない人で助かった。     §  放課後、物置の教室へ行くと、頼んだ通り鍵は開いていて、電気スイッチの横に取り付けられたフックにかけられていた。  そこから廊下に顔を出して隣の生物準備室を見る。ドアは閉まっていたけれど、中から微かに声が聞こえてくる。彼がすぐそこにいる。一瞬の視線でこの心に小さな穴を開けて、とめどない感情を溢れさせた彼が。  先生に質問があるふりをして、そのドアを開けたら、紅緒はどんな反応をするだろうか。  ――違う。そんな知り方ではなんの意味もない。  何かもっと、あの時彼から投げかけられた視線の一撃を超えるような、出来すぎていて恥ずかしくなるほど劇的で、心臓を撃ち抜くような衝撃を知りたい。  深呼吸をして、室内に向き直る。乱雑に積み上げられた箱の山は、無理に引き抜こうものならすぐに崩れてきそうなほどに絶妙なバランスを保っていた。下層になるにつれて、その側面に書かれた日付が何十年も前のものになる。  二、三段ほど積まれた比較的新しいものの蓋を開けてみると、中には書類や本と備品類が詰め込まれていた。ほかの中身も大体そんなものだろう。  生まれるよりもずっと昔のものがこんなにあるんだと、幼い頃はそういうものがとても不思議なものに感じて、そこにある漠然とした感覚が何なのかを知りたがったこともあった。  それが今は一人の同級生に病的なまでに夢中になっているだなんて、おかしさまで込み上げてくる。感情が脳内を駆け巡って、少し前まで考えていたことまで、はやる気持ちに押し潰されそうだ。     § 「仁科、ここももう閉めるぞ」  気持ちを落ち着かせるために適当に手に取った本を読んでいたところで、声をかけられる。ここまでは思っていた通り。 「はい」  初めて感じたあの視線には程遠いけれど、見様見真似で、そこにいるであろう彼に向けて視線を移す。  ――目が合う。彼の視線が、少しだけ動いて固まったのを感じた。 「仁科。こいつ赤星っていって、お前と同じ一年生な。たまに教材の片付けとか手伝ってくれてんだよ。今どきこんな生徒もいるんだなあ」 「はい、知ってます」  紅緒の様子を見るに、すでに心ここに在らずという状態だった。この会話も耳に入っていないのだろう。 「なんだ、知り合いだったのか。こいつ人当たり良くて知り合い多そうだもんな」 「いえ、違います」  噛み合わない会話に先生が首を傾げる。 「気にしないでください」 「そうか。あー、そうだ。折角同じ一年生なんだし、一緒に帰ったらどうだ? ま、方向一緒か知らんが。なあ、赤……星?」  言い終わる前に、紅緒は走っていってしまった。先生はその方向を見ながら「なんかあったのか?」と不思議そうな顔をしている。 「それはまたにします」  フックから鍵を取り、電気を消す。 「鍵、ありがとうございました。また貸してください」  予想よりも効果はあったようだ。  さあ、赤星 紅緒。君をもっと知る権利が僕にはあるだろうか。

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