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#1-8
――九月最後の三連休も終わり、あれほど暑かったのがまるで嘘のような肌寒さを感じる、静けさに包まれた早朝の校舎。俺は一年生のフロアへと向かっていた。
ずっと帰り道での出来事について考えている。仁科はどうして俺の家を知っていたのだろうか。あまり人口の多い苗字ではないし、たまたま“赤星”という表札を見つけて、俺の家だと思ったのかもしれない。
(でもあの道が家に繋がってるなんて俺は知らなかったし、第一、俺は仁科に着いて行っただけだし……仁科の帰り道が俺の家の前を通る可能性が必ずあるとは言えないよな)
そもそも、知らない道とは言えいつもと同じ方向だからそのうち知った道に行き着くだろうと思いながら、それ以上何も考えずに着いて行った俺も俺だ。
もしかして、仁科はあの道が俺の家の前を通ると知っていたのではないか。帰り道で“赤星”の表札を見かけたことを名前を聞いて思い出した、とか。
(駄目だ……考えたところで実際のことなんて仁科にしか分からないだろ。それより今は、あいつの名前だ)
ここ数日よりも更に早く学校へ来たのは、他でもない仁科を待つためだ。幸い、まだ廊下にも三組の教室にも仁科の姿は無い――なんなら、こっそりと下駄箱まで確認した。窓から外でも眺めて、待っていよう。
§
窓から差し込む日差しに少しだけ微睡 んでいたところを、俺を呼ぶ声で現実へと引き戻される。
「赤星? こりゃあまたえらく早起きだな」
「あー……伏見先生か。おはようございます」
俺が元気無く答えると、先生は手に持っていた筒状の紙の束で小突いてきた。
「おはようっつーか、なんだその“朝からおっさんかよ”みたいな顔は。三十歳はまだお兄さんと呼べる範疇 だろ」
「いや、先生はなんていうか……胡散臭いですよ、その顎ヒゲとか白衣とか」
面白い先生だけれど、見た目の胡散臭さといったらない。生物準備室で豚の目玉やよく分からない生き物のホルマリン漬けに囲まれた姿はさながらマッドサイエンティストだ。
「白衣は生物教師の正装なんだよ」
腕を組んで「どうだ」と言わんばかりに汚れ一つ無いまっさらな白衣を見せつけてくる。
「なんですかそれ、聞いたこと無いですよ」
「朝弱いタイプか? 放課後に手伝ってくれてる奴と同じとは思えないぞ、お前」
「別に弱くないです……三日三晩、絶対に答えに辿り着けるけど一切ヒントが無い問題と、考え抜いたところで答えは出せない疑問について考えてたせいでモヤモヤしてるだけで」
週の始まりから疲れきっているのは間違いなかった。早くどちらかの悩みごとだけでも解決しないと今週末までもたないかもしれない。
「お前十五、六でそんな哲学的なこと考えてんのか……ああ、それで仁科に会いに来たのか。あいつ頭切れるもんな」
そういえば、仁科は三組の生徒で伏見先生は三組の担任だ。
「一組の赤星が三組の前で何してんのかと思ったんだよ。お前、あんなんだったから内心かなり心配してたけど、あれから仲良くなったんだな。いやぁ、良かった良かった」
二学期からとはいえ、担任ということはクラスの生徒のことを知っていてもおかしく無い。ということは、だ。
「先生、仁科の名前知ってます?」
「えー……そんな急に聞かれてもな。おい、露骨に残念そうな顔するな。まだ全員の苗字しか覚えてないんだよ。今思い出す」
そう言うと、目を瞑って記憶を辿り始めた。期待しすぎたところもあるけれど、そうまでしないと思い出せないほどのことなのか。とにかく頼む、先生。
五分ほどの沈黙を経て「この人、まさかこの状況で寝たのでは」と思い始めた頃、やっとその目が開かれた。
「光周性の……周辺の周な。漢字はそれで、読みはシュウ……じゃなくて、なんかこう……訓読み? で、どこぞの“偉人”みたいな」
曖昧な記憶を辿る先生のあやふやな口調が夏輝の話し方に似ていて少し面白い。
なるほど、“周 ”の訓読みか。“周り ”は一般的だけれど、名前としてはしっくり来ない。
さっき先生が“哲学的”って言ってたな。運が良いことに、最近社会の授業で哲学という言葉の成り立ちについて聞いた。この言葉を創ったという人物の名前が同じ字だったはずだ。それで、なんと読むんだったか――
「周 ?」
「何、紅緒」
すぐ横で仁科がこちらを見て立っていた。このまま窓をぶち破って転がり落ちるギャグのような映像がはっきりと脳内で流れるほどびっくりした。
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