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#2-8

「周?」 「何、紅緒」  登校して早々に名前を呼ばれた。返事をすると、かなり驚いた様子で一時停止したように固まる。  今朝も兄の余計なお世話に付き合ってイライラさせられていたけれど、紅緒の反応はそれすらも吹き飛ばしてくれる。 「おー、噂をすればなんとやらだ」 「おはようございます、先生」 「おはよう。タイミングばっちりだな。今まさに仁科の話してたんだよ」 「邪魔してしまいましたか」  僕が気付かれなかったというよりも二人が気付かなかっただけだ。紅緒はこちらに背を向けていたし、先生は何かを思い出そうと集中する時に、目を瞑ったり別の次元を見ているようにピントが合わなくなる。  つまり名前を思い出そうとするところから二人とも僕を見ていない。死角になる柱にでも隠れてその時が来るのを待ち、さも当然のように現れればいいだけの駆け引きとも呼べない必死さの残る雑なやり方。早い時間で他に登校してくる人がいないからこそ出来た。 「いや、気にすんな。赤星から仁科の名前知りたいって言われてさ。漢字は思い出したんだけど、読み方までは……って、本人に言うのは失礼だな。まあ、ちょうど良かったよ」 「それなら良かったです」  先生はあれからクラス全員の苗字を覚えた。名前は曖昧だったけれど、紅緒にとってはヒントになったらしい。 「というわけで、先生はもう行くぞ。教師は朝から晩まで忙しいんだ。ああ、そうそう赤星、今日の放課後手伝ってもらえるか?」 「あぁ……はい、行きます」 「で、仁科は今日も放課後は隣の教室か?」 「いえ、あそこはもう良いです。今日は僕も、紅緒と一緒に先生を手伝っても良いですか  紅緒がそばにいる今となっては、あの教室には一切役目がない。申し出を聞いて紅緒が少したじろいだのが見えた。 「そうか。人手が多いほうが早く終わるからな。頼むよ。んじゃ、まあそういうことで。仲良くなー」  先生がいなくなったあと、紅緒はまた平静を装うのに集中しているようだった。困らせてしまっただろうか。しかし、その反応もすべて心地良さへ変わっていく。 「名前当たったね。紅緒なら分かると思ったんだ」  さっきは先生がいたから抑えていたけれど、紅緒に名前を呼んでもらえたことに対する感情が喉元まで込み上げてきている。今すぐに誰にも邪魔されない場所で二人きりになりたい。 「ほら紅緒、ついて来て」  いても立ってもいられずに、紅緒の手を引いていた。初めはびっくりしていたけれど、すぐに大人しくなって静かについてくる。     §  屋上に通じるドアの前、ここには誰も来ないことを知っている。ホームルームまでの一時間を二人だけで共有するにはうってつけの場所だった。  ちょっとした衝撃で溢れ出そうになるこの感情の塊を、どうすれば綺麗に伝えられるだろう。 「仁科ってさ」 「紅緒」  考える間もなく、紅緒から切り出された言葉に反射的に反応してしまった。  どれだけ見つめても、踏み込もうとしても、その本心はほんの少しの隙を捉えて一瞬にしてすり抜けていく。 「僕はただの“仁科”じゃなくて、“周”。もう名前は知ってるよね。前にあの元気な友達のことを“夏輝”って呼んでたから、“”仲の良い友達のことは名前で呼んでるのかと思ってた」 「お前ってなんか……怖いな。俺のこと、俺より知ってるみたいだ」 「そうかな。全然だよ」  (せき)を切ったように言葉が飛び出してくる。知ってるけれど知らない中途半端さがとてももどかしい。

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