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第7話
店の定休日は最近、ぐーたら出来る休日ではなくなった。
それというのも前日深夜に店を閉めると、それを見計らったかのように羽鳥か野瀬が来て俺を拉致る。行き先はまちまち。遠出の時もあればボディーメンテの時もある。
今日は直ぐにシャワーに放り込まれて体を洗った後は水分補給、マッサージをされてサウナに入れられ、酸素カプセルで少し寝た後はヘルシーな食事を出され、なんだかいい香りのする部屋でたっぷり寝た。ちなみにこんなだから、定休日前日は酒を控えるようになっている。
起きたらまた食事、シャワーを浴びてフェイスエステ、そして現在鬼のようなトレーニングメニューをこなしている。
「大分いい体になってきましたよ、畑さん。この分なら来年にはバッキバキに腹筋割れてきます」
「羽鳥~」
「むくみも取れるようになってきましたし。何より不摂生な生活だろうに、健康状態は良好なんですよね」
「なぁ、お前暇なの?」
「そんなわけないでしょ? 息抜きとストレス発散です」
「俺を虐めて楽しいのかよぉ!」
俺のボディ状態を分析するシートを見ながら、羽鳥が感心したように言う。どうやら野瀬の仕事効率を引き上げる為、俺の肉体改造を本格的にすることにしたらしい。
「この後は整体、夕食後はお酒を飲みに」
「明日の仕込みあるんだけど?」
「それなら梶を行かせているので、問題ありません」
「お前、梶くんを何だと思ってるわけ?」
俺は呆れ、可哀想にこき使われる少年を思い浮かべて溜息をついた。
梶くんは最近うちの店の手伝いをしてくれている少年だ。とはいえ現在十九歳なので、仕込みだけ。元々は羽鳥の使いっ走りのような少年である。
なんでも、野瀬の店の周囲で喧嘩が多発して乗り出した羽鳥が拾ったそうだ。一人で十人くらいをのしたそうで、かなり腕っ節が強い。
こういうと怖いのかと思うが、実際は素直で意外と考えている。喧嘩が原因で高校を中退してしまったが、将来は普通の仕事につきたい。かといって今から高校とかは無理だから、技術系の仕事を考えている。そして、料理が好きだと言っていた。
そういう理由もあり、俺の所で下積みを兼ねてきてくれる。ちなみに給料は何故か羽鳥が払っている。雇用主って……?
「あの子は預かりですよ。無口で無愛想だからって喧嘩売られてただけで、自分から売ることはないようですし。この世界に入れるには真っ当です」
「だな」
「帰る家がないと言うので、私の家に置いているだけですしね。門限があるわけでも、必ず帰ってこなければいけないわけでもない」
「一緒に住んでるのか!」
「私の可愛いお嬢さんと坊ちゃんのお世話をお願いしたりしています。真面目でまめですから、とても助かっています」
「……お嬢さんと、お坊ちゃん?」
こいつ、結婚してないだろ。
チラリとこちらを見た羽鳥が「猫と犬です」と言うので納得したが…………え、そういうキャラなのこいつ?
それにしても、大事にされているらしい。そういえば梶くんは少し犬っぽい感じがある。あまり愛想の良くない方の。見た目は猫っぽいのだが。
猫目で色が白くて髪は金髪猫っ毛。身長は一六七センチとぎりぎり小柄。性格は犬系だよな。褒められ慣れてない感じで、褒めると恥ずかしそうな嬉しそうな顔をする。
「実際、どうですか? 料理でものになりそうですか?」
「あぁ、大丈夫じゃないか? 物覚えもいいし、素直だからちゃんと教えた通りにできる。器用だしな」
「では、よければ引き続き教えてあげてください。二十歳を超えたら夜も。接客できないと独立も難しいでしょうから」
「育ててやるんだ」
スポーツドリンクを飲み込みながら聞くと、意外にも羽鳥は躊躇いなく頷いた。
「拾ったんです、最後まで面倒を見るでしょう。生き物を飼う人間の最低限のルールであり、モラルです」
「いや、彼人間だけれどな」
「同じです。ちゃんと立てるまでは面倒を見る。その後どうするかは本人の意志に任せますが、それまでは」
「……お前も案外責任感あるんだな」
「失礼な畑さんにはスクワット五十回追加で」
「え!」
「私、理不尽なので」
まったく表情を変えずにファイルを閉じて理不尽な追加メニューを言い渡された俺は文句たらたらだ。なんせ今だってお膝がバンビだっての。
そんな事でワーワーと言い合いをしている所に、バタバタっと人が駆け込んでくる。服装的に、羽鳥の部下だ。
「は……羽鳥さん!」
「どうしました?」
「あの、店が……畑さんの店が!」
「?」
え、俺の店?
俺と羽鳥は顔を見合わせ、とりあえずバタバタとジムを出る。すると下には黒いセダンが停まっていて、何故か野瀬まで乗っていた。心なしか、野瀬の顔色が悪かった。
「何があったんだ」
「火事です」
「……は?」
火事って……俺の店が!
心臓が痛いくらいで、上手く状況が理解できていない。でも、それ以上に……。
「梶くん……梶くんどうした!」
「っ!」
羽鳥も顔色を亡くしている。だがそれについては野瀬も分からないのか、首を横に振る。
とにかく取り急ぎ店に向かった俺は、そこで無残な我が家を見る事となってしまった。
二年、すっからかんながらも生活を重ねた店は燃え落ちて屋根も全部落ちていた。暖簾も、全部……。
力が抜けて、気力が涌かない。今までの生活全部をなくしたみたいで、たまらない気分だ。
「畑さん」
気遣わしげに野瀬が俺の肩を支えてくれる。正直その体温が今は有り難かった。
「ここの店の人ですか?」
警察官が近づいてきて、俺に問いかける。頷くと、彼は焼け落ちた店を仰ぎ見た。
「可能であれば、現場検証に立ち会っていただきたいのですが」
「あ……」
「俺も一緒に行ってもいいですか?」
俺を支えている野瀬が申し出てくれる。正直今はとても助かるが、警官は訝しげにした。
「君は?」
「この人の友人で、この店の常連です。ここには何度か泊まった事もありますから、説明の補足くらいはできます。この人、今とてもショックを受けているみたいなので」
「……そうですね。では、付き添いで」
「有り難うございます。あと、この店に少年が一人いたと思うのですが、その子はどうなりましたか?」
「少年?」
「金髪に猫目の」
「あぁ! この店の勝手口がある裏路地に倒れていた!」
「倒れていた!」
俺も野瀬も、そして側にいた羽鳥も驚き、安堵と心配を同時にした。とりあえず火事に巻き込まれて亡くなったりしなくて良かった。でも、一体裏口の外で何があったんだ。
「すみません、その子の現在の後見人なのですが、その子の容態は?」
「火事が起って人が集まった時に発見され、病院です。頭を打っているようで搬送時は意識がなかったのですが」
「病院教えてください」
「あの、保護者……」
「彼は家出を繰り返す非行少年で、彼の両親も彼には感心がなく引き取り手もありません。私が今は彼を保護して一緒に住んでいます。お疑いでしたら、この番号に連絡を取ってみてください。彼の母親に繋がります」
……やっぱ、色々手を回していたんだな。
でも、あちらは羽鳥に任せてよさそうだ。俺は……これと向き合わなきゃいけないんだろうな。
燃え落ちた無残な我が家を見上げながら、俺と野瀬は規制線の先へと入った。
まだ水の滴る家の横を通り過ぎて、裏路地の方へと案内される。おそらくは出火元なんだが……こっちに火の元になるような場所はない。風呂のボイラーは逆側だし、厨房なら表から入った方が早い。二回にはそういうものはないし……漏電の可能性は否定できないが。
だが、警官が連れてきたのは勝手口のすぐ脇。確かにその辺りは焦げ臭くて他よりも燃えて炭化が酷い。
「ここが出火元のようなんですが、何か置いていましたか?」
「いえ、ここは勝手口で食材を運び込む場所ですし、俺も普段このドアを使うので周辺には何も」
「ゴミバケツとかは」
「そういうのは野良猫やカラスが荒らすからと、町内会でも表に出さないようにというルールです。ここの町内会長さんとか役員に聞いてみてください。火の用心の見回りのついでに、そういうのチェックしてると思うので」
「……分かりました、後で確認してみます」
まず、バケツとかの残骸ないだろうが。多分、分かっているけれど確認なんだろうな。警察ってのはそういうことが面倒くさい。わかりきっていても本人の証言というか言質を取らなければいけないんだ。
「原因は、何でしょうか?」
俺に代わって野瀬が聞いてくれる。それに、警官は困った顔で俺を見た。
「まだ検証の途中ですが……おそらく」
「放火、ですか?」
「火の出るようなものは無いようですし、壁が外側から激しく燃えているそうです。中からの失火ではないと、消防の方も言っていました」
放火って……誰がこんなボロ屋を燃やして得があるんだよ。ってか、今日から俺はどうすればいいんだよ、何もないじゃないか。
幸いなのが野瀬が置いて行っていた二百万は、羽鳥が回収してくれた後だったこと。それと同時に店の売り上げは定休日前日の夜、やはり羽鳥が回収して収支計算をした後に彼の部下の手で銀行に預け入れている事だ。
「ここの路地から表に、若い二人組の男が走り出てきたという目撃証言があります。その少し後に通報がありました」
若い……二人組……。
俺の頭の中では可能性のある二人が出ている。みかじめ料を取ろうとしたあの二人組だ。
だが、そうなるとこれは……単独の恨みなのか。それとも、もっと大きな物が関わっているのか。
「何か、心当たりはありますか?」
「……分かりません。店をしていると、こちらが認識していない事もあったりしますから」
「以前、反社会組織の人物がこちらで暴れたという被害届もありましたが?」
「周囲の店も被害にあっていると思いますし、町内会長が複数被害で出していると。うちもその一つですが、特別恨みを買ったという覚えもありません。その後、この店に現れていませんし」
「一度も?」
「はい。なんなら常連のお客さんに確認を取ってみてください。工務店の大野さんと、喫茶店の遠藤さん、本屋の佐々木さんがほぼ毎日来ていますから」
「分かりました。こちらから追って連絡も取りたいので、連絡先を教えて頂いても?」
「はい、構いません。番号は……」
一通り事務的な確認と連絡先を教えて、ひとまずは解放されるそうだ。中を見たいと思ったのだが、中はまだ崩れる可能性もあるからダメだと言われた。
そのタイミングで羽鳥から連絡が入り、病院の場所と梶くんの容態が伝えられた。今は意識もあるが、全治一ヶ月。明らかに暴行の痕跡があり、精密検査の為今夜は入院との事だった。
「……行きますか?」
「ん、そうだな」
「……今日は家、泊まってください。あの、嫌じゃなければ落ち着くまで」
「……有り難うな」
気遣う野瀬が有り難い。多分こいつがいなかったら、今頃俺は魂抜けて動けなくなってただろう。住む場所も……現金最低限だから、長くホテル暮らしは無理。ネカフェが無難だ。正直その申し出は、有り難かった。
店、どうしようか……住む場所も、どうしよう。新しく建て直すほどの貯金はない。誰かの店に雇ってもらって金を貯めて……それで立て直しは、何歳なんだよ。
ヤバい、先を考えるとなんか、泣きそうだ。今は梶くんの心配もしなきゃいけないのに。放火犯と鉢合わせして、怪我をしたのかもしれない。それなら巻き込まれてしまったんだ。彼が怪我で済んだことが、不幸中の幸いだ。命まで取られなくて良かった。
車は羽鳥が使った。俺と野瀬はタクシーで連絡のあった病院に急いだ。その間、俺も野瀬も無言だった。
連絡があったのは個室。入るとベッドの側に座っている羽鳥と、頭に包帯を巻いて上体を起こしている梶くんがいる。俺を見て、梶くんはとても申し訳ない顔をして俯いた。
「畑さん! すんません、俺……留守預かったのに、こんな事になって」
「梶くんのせいじゃないよ。俺こそ、面倒に巻き込んで怪我をさせてしまって申し訳ない。痛むだろ。体は?」
「とりあえずは。脳震とう起こしてたので脳の検査は終わって、異常はないって。あと、骨も大丈夫でした。あまり心配しなくて大丈夫です」
「何を言っているんです? 腹は痣だらけで、目も腫れてきて、口も切っているし、足捻挫してるでしょ。肩も脱臼してたし」
「そんなに! 大丈夫じゃないだろうが!」
思った以上にやられている。思わず睨んだ俺に、梶くんは申し訳なく俯いて頭をかいた。
「このくらい、喧嘩とかわらないですから。慣れてます」
そう言う梶くんの目元は青あざになっているし、口の端も切っているようで治療されていた。
「私はもう少し側にいて、必要な事をします。仕事はその後で」
「分かった」
「まったく、時間外の仕事増やしやがって。必ずぶっ殺す」
冷たい殺気を放つ羽鳥がいっそ怖い。が、今回ばかりは俺も同じ気分だ。
「畑さんはしばらく野瀬さんの家ですか?」
「こいつがいいと言ってくれるなら、だが」
「勿論です! 使っていない部屋もあるので、そちらを使ってください。必要な物はこの後揃えます」
「長期になるでしょうから、必要ならこちらで部屋を押さえます。野瀬さんが嫌になったら連絡をください」
「羽鳥!」
「この人、粘着質ですからね。仕事相手としては十二分ですが、同居人としては疲れます」
この状況だというのに、羽鳥は普段通りに上司をディスる。それに野瀬は何かを言いたげにしながらも言えず押し黙る。図星だからだろうが。
「まぁ、連絡があるまでは動かないでください」
「あぁ」
「貴方もですよ、野瀬さん。貴方が一番心配ですからね。勝手をしたら許しませんからね」
「分かってる」
溜息をついた野瀬が俺の肩に手を触れる。それを頼もしいと、思っている。
羽鳥が乗り入れた車に乗って、俺と野瀬は数日分の衣類と生活用品を買い込み、夕飯はテイクアウトにした。とても店で食べる雰囲気じゃない。その間にもメッセージアプリにはガクさんやリョウさん、たっちゃんから「大丈夫か!」というメッセージが届いていて、俺はそれに「とりあえず大丈夫」と返している。
大丈夫……じゃないかもしれない。でも、大丈夫って言わないと立っていられない、進めない。
大丈夫、ムショでも八年どうにかなっただろ。人生終わった気がしても、そこから何かを見つけ出せただろ。命まで取られたわけじゃないんだ、絶望なんてまだしていられない。
新着を知らせる音。そこにある「また店、やるよな?」というメッセージに、俺はこの日返す事ができなかった。
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野瀬の使っていない部屋を間借りして、飯も食って、風呂も借りた。深夜になっても、俺は眠れないままでいる。
色々、考える事が多すぎて逆に考えられない。纏まらないくせに、不安ばかりが押し寄せてきて余計に追い詰められている。
ムショ入った直後、こんな気分の時があった。やっぱり夜中、外の心配をしていた。出もあの時はまだ、やる事は他人の手で決まっていた。今はそれすらもない。
「はぁ…………どうすっかなぁぁ」
まずは、住む場所。それをなんとかするには元手が必要だ。しばらく野瀬に世話になるのが無難だろう。コンビニの店員でも、工事の交通整理でもいい。基盤どうにかしないと。そうしたら部屋を借りて本格的に就活して、それで…………。
ダメだ、もう一度店とか見えない。もう五十近いんだ、いつまで働けるんだよ。
落ち着かなくて部屋を出た。手には煙草だけ。それを持って換気扇の下、火を付けても大して吸わず燻らせている。ぼーっとして、人工大理石の天板に灰を落として慌てて拭いて……何してんだろうな。
「畑さん?」
声をかけられてそちらを見たら、野瀬が近づいてくる。服はまだ日中のものだ。もしかしたら、仕事をしていたのかもしれない。
もしもだ。もしもこっちの世界に戻ってきたら、俺には需要があるのか? 普通よりも早く、稼げるか?
いや、ダメだ。最近鍛えだしたとしても骨董みたいな俺じゃ弾よけくらいにしかなれない。逆に足を引っ張りかねない。
近づいてくる野瀬が、俺を正面から抱きしめる。その腕の中で、俺はずるいことを考えた。
「野瀬」
「なんですか?」
「お前、俺の事好きか?」
言って……後悔した。こいつに言うのは違うだろう。こいつに頼るのは違うだろう。きっと断らないからって、縋っていいわけじゃない。こいつを全面的に受け入れていないってのに、弱った時だけ頼りにして。俺はそんな都合のいい事をするのかよ。
反吐が出る。やっぱり、ここに居続けちゃいけない。明日にでも羽鳥に連絡して、前借りでいいから少し金を借りて、部屋を探そう。仕事もなんでもいいから見つけて、なんなら羽鳥の雑用係でもして、それで……。
「いや、なんでもない。ちょっと今、冷静じゃないんだわ。聞き流して……」
「好きですよ」
「っ」
野瀬の腕が強く俺を締め付ける。俺はこれを振り払わなければならない。こいつの優しさを無償で受け取れない。ずるい事はできない。
「分かってるよ。悪い、俺今弱ってるから、ちょっと変なんだ。なんとかするから」
「どうして……」
「野瀬?」
「どうして、頼ってくれないんですか。俺は、そんなに頼りないですか?」
俺を締める腕に力がこもって、むしろ痛いくらいで俺は焦った。体重を乗せる野瀬は俯いていて、俺からは顔が分からない。でも……怒っているように思えた。
「前もそうです。どうして、俺に相談してくれないんですか。話をしてくれないんですか。どうして全部自分で背負って、大変なのに大丈夫なんて言って」
「いや、だってこれは俺の問題で……」
「アンタの問題ばかりじゃないでしょ!」
叩きつけるような声に俺はビクリと震える。野瀬が俺を睨む目は泣きそうで、いっそ恨んでもいるようだ。
「どう見てもこっちのとばっちりだよ! アンタは完全に巻き込まれた被害者だよ! 分かってんだろう、そんなこと!」
「それは……」
「それなら俺を責めていいんだよ! お前の不始末で大事な店を失ったんだ、弁償しろって! なのに、何背負おうとしてんだよ!」
……その可能性はあると思った。でも……。
「こういう生き方を今までしてきたんだよ」
「っ!」
「……悪い、頼りたい気持ちはあったけど、でも……なんて言っていいか、分かんないんだ。慕ってくれるお前の気持ちにつけこんで要求とか、したくなかったんだよ。年上としてのプライドとか、色々面倒くさいものもあるんだよ。素直にお願いなんて、言える性格でも立場でもないんだ」
誰かに寄りかかる生き方に憧れて、でも結局信じ切れなくて手を離す。俺のせいで誰かを引っ張り降ろしてしまうのは怖い。俺一人ならどこまででも落ちられる。だから……手を伸ばすのが怖い。
そうして、妻と娘を手放した。手を伸ばしてくれていたのに、俺は取らなかった。オヤジもそうだ、精一杯してくれたのに。
野瀬だけが、追って追って無理矢理俺の手を掴んだ。それでも俺は、まだこの手を疑っている。引き上げようとするこいつを、信じ切れない。
甘え方なんて分からないんだよ。無償なんて言葉、信じられないんだよ。対価のいらない愛情を信じて、裏切られたら俺はどうしたらいいんだ。この年で、リカバリーなんてきくかよ。
それでも野瀬は俺を離さない。逃がさないように捕まえている。こんな風に言われて、愛想尽かしてもいいのに。
「野瀬、離していいんだぞ」
「嫌だ」
「……お前が落っこちるかもしれないだろ。こんなおっさんに縋らなくても、お前ならもっといい相手見つけられる」
「バカにするな、アンタ一人背負って落ちるならとっくに落ちてる。アンタを背負えるくらいちゃんとしようと血反吐吐く思いでここまできた俺をなめてんのか。十年だぞ! 一人を想って努力し続けるには長すぎるだろ。こっちはな! 捕まえるつもり満々でいるんだ! 捕まえたんだよ! 離すわけないだろ!!」
グッと肩を痛いくらい掴まれ、正面から睨まれる。その目は、泣いていた。僅かに潤んで恨めしく見る野瀬を、俺は呆然と見ている。
「頼れよ、頼むから。アンタの望みなら俺は、全力で叶えるから。無償が嫌なら、貸しにする。落としどころはいくらでもあるだろ? こんな時くらい、弱ったっていいじゃないか。ちゃんと、受け止めるから」
知らない間に、男になっていた野瀬に驚いて……俺も、泣きそうだった。
本当はもう、限界だった。抱えきれなくて溢れてしまっていて、先が真っ暗だった。
「言えよ、アンタの望み。店、続けたいんだろ」
「……うん」
「俺も、アンタの飯が食いたい。ガクさんやリョウさん、たっちゃんと一緒に」
「うん……」
「ちゃんと落とし前付けて、そっちも整える。金の心配とか、もうしなくていい。そんなの……アンタとのこれからの時間で全部帳消しになる」
野瀬の言葉が染みてきて、ジワジワ俺を弱らせる。気づけば俺はガキみたいに泣いていて、野瀬も同じように泣いていて、いい大人が二人抱き合って声を殺して泣いていた。
帳消しになんて、なるんだろうか。今は分からないけれど……帳消しに、してやらないと。またあの店で、お決まりの日常を取り戻して……そこにはこいつも一緒にいて。
「俺の残りの時間で、足りるか?」
「余る」
「……俺、まだお前の好きって気持ちに完全に応じてやれる自信、ないけど」
「大丈夫、惚れて貰うから」
「……マジか」
大した自信だよな、こいつも。
少し、心の中にできた余裕。それは野瀬が背負ってくれて出来たものだ。それならこの隙間は、野瀬で埋めよう。そうして生まれたものを温めて、共にいられるように努力をしよう。
掴まれた手を俺も掴みたい。離さないように、強く強く。その誓いを込めて、俺は野瀬にキスをした。
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「はい、こちらに目を通しておいてください。理解したらサインと拇印を」
「……えっと?」
火事翌日、野瀬と一緒に事務所にきた俺に羽鳥が叩きつけるように渡したのは、あの土地に新たな店舗を建てる為の計画書と予算の算出。その全てを野瀬の事務所側が払うという内容だった。当然のように俺の負担はなく、完成した建物は全て俺に譲渡される。
話が早すぎる。俺は野瀬を見たが、あっちも首を横に振っている。こいつが指示した訳じゃないらしい。
「サインするんですか、しないんですか」
「いや、だって……」
「まだ調べが四割ですが、どうやら昨日の事はこちらの詰めの甘さが招いた事のようです。言わば賠償金代わりですのでお気になさらず。資金は野瀬さんが貴方に渡すつもりでいた三千万から十分捻出できます。どうせ現金では受け取らないのでしょ? 現物支給でいいですね?」
「いや、色々ちょっと待て! まず三千万ってなんだ!」
「この人が貴方の十年に対して用意していた慰謝料ですよ。それでもまだ足りないと言ってちまちまプールしていますから、細々と受け取らないと大変ですよ。最終的に年収七百万×十年で計算していますからね」
待て、知らんぞそんな話。
俺は野瀬を睨んだが、素知らぬ顔をされた。
「まだ現場検証などがあるので建物の取り壊しなどできませんが、動かせるようになったら直ぐに動かします。前よりも導線を整理して居住環境を良くすることと、耐震性、セキュリティの強化もします。詳しくは設計士と話し合ってもらいます。あと、予算天井なしでいいですから」
「いやいやいや!」
「いいからさっさとサインしてください。こちらの仕事が終わりません。それとも移転します? もっと広い土地ありますよ」
「いらない!」
羽鳥の殺気だった迫力に圧されるように俺はサインをして印を押した。するとあっという間に紙を取り上げられ、「決」の印も押されて次に回されていく。
「……野瀬」
「優秀な部下を持ちました。今度ボーナス出します」
「ボーナスはいらないので、後で一時間休み下さい。ストレス過多でやってられっか。猫カフェに引きこもるので声かけないでくださいよ」
「二時間、いいぞ」
「太っ腹に感謝します」
……いい関係なんだろうな、この二人。
鬼の形相で黙々と書類を片付け電卓を叩き部下を働かせる鬼参謀と、その操縦をよく分かっている野瀬を見て、俺はなんだか気が抜けたように渇いた笑いを浮かべるのだった。
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