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おまけ2:子猫は蛇に甘やかされたい

 十二月三一日、大晦日。  今年の秋に転がり込んだマンションの一室で早めの年越し蕎麦を茹でながら、俺は上手く出来たつゆの味を再度確かめて笑う。教えて貰った通りにちゃんと出来ていて安心した。  梶幸太郎、現在十九歳。目つきが悪い、顔が生意気、態度が腹立つという理由で他校の生徒と乱闘騒ぎを起こしたあげく、相手がどこぞのボンボンで全部の罪を背負って退学処分となり、少年院一歩手前まで行った俺を拾ってくれたのは、ヤクザの参謀をしている羽鳥さんだった。  一年以上腐って過ごした俺が準構成員と呼ばれるような奴らと喧嘩したのは、今年の秋の事。どうにかボコったけれどこっちもボロボロで動けなくなっていた所に来てくれたのが、羽鳥さんだった。  とても、妙な人だと思う。親を含めて他人なんて信じられなくなっていた俺を見て「警戒心丸出しの野良猫みたいですね」と言って手を伸ばして。行く場所のない俺の母親に連絡をして保護者代わりになってくれて。今も帰る場所のない俺を自分のマンションに置いてくれている。  しかも高校中退というのを知って知り合いの畑さんのお店に見習いで入れてくれるようにお願いしてくれた。  畑さんは小さな和食居酒屋をしている人で、元は同じ世界の人だとか。  最初は全然そんな感じはしなかったのに、怒った時の声が腹に響く感じでビビった。あの目は絶対に危ないと思える。少なくとも喧嘩しようとは思えない。  元々、飯を作るのは好きだった。食べるのは自分だけだけど、上手く出来ると自己満足だった。羽鳥さんも俺の作った物を食べて「まぁ、それなりですね」と笑って言ってくれる。口は悪いけれどその顔を見れば喜んでくれているのが分かった。  今は訳あって店が休業状態だけれど、畑さんにお願いすると料理を教えてくれる。このそばつゆも最近教えてもらったものだ。  将来は料理人を目指してみたい。その為にって、羽鳥さんは俺に色々してくれる。申し訳なくて言ったら「子供が気にすることじゃない」「稼いで返して頂ければ十分です」と返ってきた。  でも本当の俺の目標は、貴方の為の料理人になりたいんだ。  茹であがりを知らせるアラームを止めて素早く蕎麦をざるに上げる。水でしめて器に分けてつゆを注ぎ、天ぷらとネギと紅白のかまぼこを添えてリビングに持っていくと、羽鳥さんは愛猫の蘭姫を膝に、愛犬のロイを隣に置いてご満悦の顔をしている。 「蕎麦、出来たっすよ」 「あぁ、有り難う」  凄く優しい顔で愛猫と愛犬を撫でいた人が同じ目でこちらを見る。それを見ると最近、ドキドキするようになった。  動物相手に嫉妬、なんて恥ずかしいから口にしないけれど。でも……時々蘭姫が羨ましい気がする。撫でて欲しいなって……思って恥ずかしくて沈むんだ。  二人分の年越し蕎麦を「いただきます」と声を揃えて啜る。天ぷらは買った物を温め直したけれど他はちゃんと用意した。いい味だと思う。 「これ、畑さんに教えてもらったものですか?」  一口食べてこちらへと視線を向ける羽鳥さんに、俺は素直に頷いた。 「そうっすよ?」 「うん……上手く出来ていると思いますよ」 「本当ですか!」  褒められると嬉しい。今までの人生、叱られる事には慣れたけれど褒められる事には慣れていない。素直に嬉しくて笑う俺を、羽鳥さんはとても優しい顔で見つめる。真顔でいると冷たい印象を受ける人が、今はとても優しく見える。  そのまま手が伸びて、頭をクリクリと撫でてくる。手袋をしていない手で撫でられるのは、とても嬉しい。 「料理は楽しいですか?」 「はい」 「では、よく学んで下さい」  そう言って続きを食べ始める羽鳥さんと一緒に、大晦日の特番を眺めつつ食べる蕎麦は俺の人生史上一番美味しい年越し蕎麦になった。  テレビで除夜の鐘を聞いて数時間寝て、比較的早い時間にロイを連れて二人で初詣に出た。行くのは近所にある神社で、ロイの散歩コースでもある。あまり大きくないけれど、今日は特別だからそれなりに人が多い。 「並ぶんですね」  冷たい空気が吹き込むと少し寒い。新調してもらったダウンのポケットに手を入れたまま小さくなると、羽鳥さんはチラリとこちらを見て頷いた。 「三が日まではね」 「時間ずらしてきたのに」 「構いませんよ。ロイの散歩のついでですし」  ボーダーコリーのロイが控えめに尻尾を振りながらこちらを見上げる。黒目がちな目が嬉しそうにしているのを見ると、無性にもふもふしたくなる。  俺の主な仕事は羽鳥さんの愛猫蘭姫と愛犬ロイのお世話だったりする。 「羽鳥さんは、寒くないんですか?」  寒そうな感じがする。グレーの細身のコートに手袋とマフラー。色んな人が見惚れるような美人な人はまったく寒そうにしていない。片手にロイのリードを掴んだまま、とても涼しい顔だ。 「寒くありませんよ」 「俺のが温かそうな格好してるのに」 「筋力の違いでしょうかね?」  ……俺もそれなりに筋トレしてるんだけどな。  でも、確かに羽鳥さんは案外鍛えている。細いのに、腹筋割れてるし胸筋綺麗だし上腕も引き締まってるし尻は小さいし。ちょっと、羨ましかったりする。 「梶は寒いのですか?」 「俺、昔から寒がりなんです」  こたつから出ない生活が理想だと思っている。  縮こまる俺を見て、羽鳥さんがリードを持っていない方の手を伸ばして俺の手を取る。握られた手は手袋ごしに温かくて、細いけれどしっかりした男の手だ。  そのまま彼のコートのポケットに二人分の手を入れる形になった俺は、しばらくして頭から湯気が出そうな程に赤くなった。 「おや、真っ赤」 「や、あの……」 「お嫌でしたらどうぞ」 「……お邪魔します」  クスクスと意地悪に笑う羽鳥さんを見上げる俺は、そのまましばらく彼のポケットの中に手を入れたまま、周囲の目も我慢した。  だってこんな外でイチャイチャできるお許しなんて、そう簡単には出ないんだから。  三十分くらい並んでお参りをした。俺のお願いは「羽鳥さんの料理番になれますように」。でも羽鳥さんはそこそこ長いこと祈っていた。 「何をそんなにお願いしてたんですか?」  気になって聞くと、羽鳥さんは呆れた顔をした。 「願いばかりではなく、平穏無事に過ごせた事を感謝するのが最初ですよ」 「うっ、マジすか」  それは知らなかった……。 「じゃあ、報告だけっすか?」 「いいえ。今年も大事な人達が怪我をせず無事に過ごせますようにと」  とても穏やかな顔でそういう羽鳥さんの仕事を考えると、これはとても大変なお願いなのかもしれない。経済ヤクザだという羽鳥さん達だって、それなりに荒事はあるという。どうしても出なければいけない場面もあるとか。  そうなったとき、怪我をするかもしれない。そうならないようにと願うけれど。  ……今度、ロイのお散歩できた時に俺もお願いしよう。そう、決めた。  帰りがけ、神社の前で売られていた甘酒を二人分買った。思った以上に体が冷えていたのか、甘酒の紙コップが熱い。袖を伸ばして両手で包んで飲んでいるけれど、口の中も熱くてハフハフしてしまう。 「おや、猫舌ですか?」  見れば羽鳥さんはさっさと飲み終わっている。 「そういう訳じゃないですけど。でもこれ、熱いです」 「お前が冷えているんでしょう」 「そうっすね」  そんな寒い格好はしていないつもりなんだけれど。  思ったが、実際今はとても熱い。 「ゆっくりでいいので、飲んでしまいなさい」 「うっす」 「帰ったらお前が作ったおせちと、お雑煮ですね」 「自信作っす!」  畑さんから教わった伊達巻き。前から用意していた栗金団、田作り、昆布巻き、黒豆もほっこりと煮えた。数の子も野瀬さんが立派なのをくれたし、海老も大ぶりのを選んだ。なますも綺麗にできている。  カップの中身を急いで飲み干して屑籠に。少し先をゆく羽鳥さんを追うと、ロイも尻尾を振りながら俺を迎えてくれて二人と一匹、のんびりと明るくなり始めた道を家へと向かって歩き出したのだった。  家に帰るとお留守番の蘭姫が不機嫌そうに尻尾を床にバンバンしていた。手を洗ってロイの足を綺麗にして、羽鳥さんはご機嫌取りにチュールをあげている。こうなると現金なもので、貢ぐ相手には愛想を良くする蘭姫。けれど多分、俺にも後で何かを要求するんだろうな。  昨日のそばつゆを手直しして雑煮のつゆに仕上げながら、お餅を焼いていく。スーパーで売っていた普通のお餅を少しだけ買ったのだが、正月は何気にお餅が食べたくなる。大きいのが欲しかったが、後日一ノ瀬組長の家から餅は届くと言われてやめた。  何でも毎年お屋敷で若い衆や幹部を呼んでの挨拶が行われ、そこで餅つきが行われるのだとか。そのお裾分けがある。  いい色に焼き上がる餅をお湯に潜らせてお椀に盛り付け、つゆを注いで三つ葉を散らして持って行くと、蘭姫はすっかり機嫌を直してソファーの上。ロイもカーペットの上で寛いでいる。 「雑煮出来ましたよ」  声を掛けると蘭姫を愛でている手を止めて、羽鳥さんはテレビ前のローテーブルの前についた。  おせちも出して。その間に羽鳥さんはお気に入りの日本酒の瓶とお猪口を手にしている。すっかり準備も整えると、羽鳥さんがちょいちょいと俺を呼んだ。 「どうしたっすか?」 「いえ、お参りも終わったので先にお年玉をと思いましてね」 「お年玉!」  出されたのはぽちぶくろなんて可愛いものではなく、ご祝儀とかを入れそうなお祝い袋。中を開けると諭吉がそこそこいらっしゃる。  けれど俺はこの人から給与も貰っているし、生活費天引きとはいえここに住まわせて貰っている。戸惑いながら受け取れないと目で訴えるけれど、聞いてくれる気配はなかった。 「あの、俺も今年二十歳ですから」 「年齢は関係ありませんよ。上の者が下の者を世話するのは、この世界の常識です。野瀬さんはそれこそ部下全員にボーナスという名のお年玉を配っていますよ」 「うえぇ!!」  野瀬さんは一ノ瀬組系の幹部で、自分の組もしのぎも持っている。部下だって十人やそこらじゃないってのに。  いったい……どのくらいのお金が動くんだろう。 「この世界は、部下は上の命令に絶対です。そういう序列はしっかりしています。その代わり、上の者は下の者を世話するんですよ。お祝いがあればそこそこの額を包むし、そいつに何かあれば家族まで面倒を見てやる。今の時代では珍しいですが、古くからの組織にも良さはある。ここまでしてくれるからこそ、皆ちゃんと働けるし信頼も得られるんです」  切り捨てになんてしない。そういう羽鳥さんはとても静かに封筒を俺に押しつける。俺は戸惑いながらも、それを受け取った。 「有り難うございます」 「いいえ。大事に使いなさい」 「はい」  これだけあればいい調理器具が揃えられそう。包丁とかもいいのを…… 「ちなみに、調理器具に使うのはいけませんよ。それは諸経費ですから別予算です。何がいいのか、今ある物と何が違いどういう利便性があるのかをプレゼンしなさい」 「うっ!」 「これも一つの勉強です」  にっこりと笑う羽鳥さんを、俺はほんの少し「意地悪」という目で見てしまった。 「それなら、明日買い物に行っていいっすか?」 「構いませんよ、明日は私も少し顔を出す場所がありますから。夜も遅くなります」 「あっ、それなら夜食作ります。何がいいっすか?」 「…………お茶漬け」 「あ、お酒けっこう飲むんですね」  お酒を沢山飲んだ日の夜食は梅茶漬けと決まっている羽鳥さんです。 「お前も飲みますか?」 「え?」  雑煮を腹に入れつつなますを皿に取っていると、不意に側に空のお猪口を出されて俺はマジマジと羽鳥さんを見る。目は少し輝いていたと思う。なぜなら羽鳥さんに飲酒を禁止されていたから。 「でも、お酒は二十歳になるまではって」 「後数ヶ月で二十歳ですからね。その前に、お酒との上手な付き合い方を教えておこうと思いまして。解禁になった途端に羽目を外して黒歴史を作るなんてあるある、嫌でしょ?」 「うっ」  確かにそれは少し……嫌かもな。  テレビでべろんべろんな大人を見るけれど、ちょっとかっこ悪い。  それに比べて羽鳥さんはいつもとても格好いい。飲んでも全然乱れないし、穏やかなまま。それどころか少し優しくなる。手招きされて頭を撫でられるのは少し恥ずかしいけれど、でも嬉しいものだ。  注がれる無色透明な液体を期待を込めて見つめる俺。どうぞ、と手で示されてお猪口を持った俺はドキドキしながら羽鳥さんを真似て中身を一気に流しこんだ。 「!」  途端、喉の辺りが焼けるように熱くて、次に体も熱くなってくる。味は…… 「おいじぐない゛?」 「ふふっ、でしょうね」 「羽鳥さぁん!」 「神棚に上げた御神酒ですが、ようは日本酒です。ジュースみたいな物だと思いましたか?」 「うえ゛ぇ」  舌がピリピリするし、味もなんというか……トロッと舌や喉に絡む感じではっきりした味がない。そのくせ喉が焼けそうだ。 「無理せずこのくらいにしておきなさい。アルコール度数も二桁ですから、飲み慣れない人が飲むものではありませんよ。まぁ、お祝いで一口ということで」  そう言われてしまうと、なんだか反発がある。俺はお猪口を羽鳥さんに突き出した。 「おや?」 「飲みます」 「……ふふっ、可愛い意地ですね。黒歴史決定ですよ?」 「貰います」  楽しげに笑った羽鳥さんが俺のお猪口にまた少しお酒を注いでいく。今度は少し少ない量を舐めるように飲んだ。最初こそ舌に馴染まなかった味は、少しずつ慣れたのか飲み込めるようになってくる。羽鳥さんと二人、朝の正月番組の初日の出を見ながらおせちを食べつつ飲むお酒は、静かだけれどちょっと大人な時間に思えた。 ――二時間後  頭がぽーっとしていて気持ちがいい。でも、ちょっと寝転がりたい。 「梶、無理せず寝なさい」 「やーです」  眠い気はするけれど、寝たら終わってしまう気がする。だからこのまま、もう少しいたい。  困った顔をする羽鳥さんが、ふと面白そうな顔をする。そして徐にぽんぽんと膝を叩いた。  俺がピクンと反応する。それは、つまり甘えていいのサインだろうか。途端にこの人に甘えたくなった俺に、羽鳥さんはにっこりと微笑んだ。 「おいで、子猫」  お許しが出た!  俺はそそくさと場所を移動して羽鳥さんの膝に頭を乗せて寝転がる。柔らかくはないけれど寝心地のいい膝に頭を預けて笑っている俺の頭を、羽鳥さんは優しい手つきで撫でていく。 「甘えん坊ですね、子猫」 「にゃぁ……なんちゃって?」 「おやおや、困った子ですね」  そう言いながらもご満悦に笑う羽鳥さんを見上げて、俺はますます心地よくなってくる。とろんと目が落ちてきそうだ。 「お前はいつまでここにいるのですかね」 「ずっといるっす」 「それも困りますよ。親離れなさい」 「羽鳥さんは飼い主っす」 「おや、減らず口を」  言いながらも撫でてくれる手の優しさは変わらない。頭を、肩を撫でてくれる指先がとても心地いい。眠くなってきて…………。 「今は寝なさい、私の子猫」  こめかみの辺りに触れる柔らかな感触、頬に触れるさらさらの髪。どうして眠い今するんだろう。もっとちゃんと動ける時にして欲しいのに……。  落ちていく意識に逆らえない俺はそのまま羽鳥さんの膝の上で落ちていった。 END

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