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アブラカタブラ
アンタは魔法の石板を持っている。
ほら、まさに今見ているものだ。夥しい魔術式に似たプログラムと集積回路と一欠片の金でできた、パソコンやスマホやタブレットのことだ。
パスワードと言う名の呪文を打ち込み鍵を開け、アブラカタブラと唱えるように検索すれば、今日の天気や誰かのつぶやきや恋人の作り方など、知りたいことは何でも教えてくれる。
なんならランプの魔神の代わりに人工知能が「何か御用でしょうか」と聞いてきて、妙なる音楽を奏でたり美しい風景だって見せてくれるだろう。
余談だが、アブラカタブラは病を治す呪文という説もある。サンモニクスがカラカラに捧げた、三角形の御守りに刻印した治癒の呪文。
電子の海にもそんなものが漂っている。頭痛が治る音楽とか、耳鳴りがおさまる動画とか。まことしやかに囁かれているものたちが。多幸感や高揚感が得られるとされているものもある。
はたしてそれらは妙薬か劇薬か。使い方には注意が必要だ。中で中毒性のあるものーーー
それらは総じて、電子ドラッグと呼ばれている。
我らが聖人面した詐欺師兼俺の恋人のスイは、それに目をつけた。
スイは数日間パソコンの前に張り付いていた。
ネットからヒーリングミュージックの音源をダウンロードしまくってー中国の回線は速度がまあ遅いー原曲が分からなくなるくらいミックスして音を羅列する。それを何パターンか作って、フリー素材の背景と組み合わせて動画を作成する。
一つはしれっと動画投稿サイトに置いて、後は会員制のサイトを作ってそこに放り込んでおいた。
俺とスイは複数のアカウントからレビューだのコメントだの書き込みせっせと拡散した。
「リラックスできる」とか「中毒性がある」とか「偏頭痛が軽くなった」とか。
ただの水道水に「癌が治る」とか偽の付加価値を付けて売りつける古典的な詐欺の手口と似たようなもんだ。
そのうち、偶然かプラシーボ効果かわからないけど本当に効果があると感じた人間が出てきて、サイトに流れてきて利用料を払うやつが増えてきた。
スイがあるアーティストのアカウントを乗っとってSNSに書き込んだのも功を奏して、徐々にそれは広まっていく。
主な資金源とまではいかないが、小金をちまちま稼げるくらいにはなったと思う。
えらく地味だって?
それは詐欺師が楽して儲けていると思っているからだ。
大麻を栽培するには室内の温度管理に目を光らせていなければいけないし、ソープ嬢だって客が帰った後浴室やマットをピカピカにして次の客を迎える準備を整えなければいけない。
どんな仕事にも、地道な作業はつきものなのだ。
サイトの他に、スイは別の仕事も同時進行でやっていた。
1週間ないし1か月帰ってこないことはザラだ。
北京のローカルアパートに半月ぶりに帰ってきたスイは半袖シャツにプリントTシャツとカジュアルな格好だった。でもブランド物と一目で分かる。黒い髪はサイドを刈った短髪にしている。金を持っていそうな大学生ってとこだな。
毛玉だらけのスウェード織のソファで惰眠を貪っていた俺はのそりと起き上がり「おかえり」と日本語で迎える。
スイは微笑んで、澄んだ湖のような目をたわませる。濁った水に住んで人の生き血を啜るヒルみたいなヤツだってのに。スイは「ただいま」って言って、湯が出たり出なかったりするシャワーを浴びて、しばらくまたパソコンに向き合っていた。
これまたすぐ砂嵐に見舞われるテレビを流し見していると、スイが
「ちょっと場所空けて」
ってソファの前に立った。足をおっ広げてだらしなく寛いでいた俺は少し隅に寄る。
スイはおもむろにソファに寝転んで、頭を俺の腿に乗せてきた。
「どけよ」
スイは俺の方を向いて横になった。無視かよ。
勝手に俺の手を取って頬に当てているし。ご丁寧に貝殻つなぎで。
「どけっつってんだろ」
ん?って顔を見せたスイはふにゃりと笑って、不覚にも心臓をギュッと掴まれた気がした。
「何か変わったことあった?」
スイは手を握ったまま目をこちらに向ける。
「出たよ、海賊版が」
「ああ、思ったより早かったね」
いつのまにかまったく同じものを載せたサイトが出来ていた。しかもこちらよりも安価な利用料で。動画をコピーできないようにしておいたのに、鍵を開いてぶんどっていった。あまつさえSNSや掲示板でこちらが偽物だと攻撃してくる。盗賊か。
「どうする?」
「放っておいて」
「拡散は?」
「今まで通りでいいよ」
スイの中でこの話は終わったらしく、そのままうとうとし始める。
「ベッド行けば?」
「しばらく貸してよ」
「1分1万な」
「ひどい」
でもどく気はないらしい。ほかっといたら寝落ちしてた。ガキみたいに無防備な寝顔だ。いや、ガキだったな。こんだけタッパがあってまだティーンとかふざけてる。
俺は優しい彼氏なんかじゃないから、起こさないように抜け出すとそのまま寝かせておいて、ベッドを独り占めしてやった。久しぶりに帰ってきたってのにさっさと寝ちまうからだ。
セミダブルのベッドは2人では狭い。でも、1人だとやたら広く感じた。
朝になったら、またスイは居なくなっていた。
いつ帰ってくるか、わからない。
これもザラにある事だ。
半袖の腕に少し肌寒さを感じながらベッドから這い出した。人肌恋しさとかじゃない。北京は真夏でも朝夕は気温がぐっと下がる。
顔を洗ってパソコンの電源を入れる。俺の今の役目はサイトの管理だ。
立ち上がるのに時間がかかるから、外で朝食を食ってくる。油条っていう、砂糖を塗してないチュロスに似た揚げパンとパックに入った豆乳を腹におさめて帰ってくると、ダイレクトメールが届いていた。
中国語の文面だから読めない。でも毎回同じような文体だから何が書いてあるか検討がつく。翻訳ソフトを使って訳すまでもない。
別のサイトのパクリだとか効果がなかったから返金しろとか、こういう問い合わせがひっきりなしに来る。海賊版が出てから爆発的に増えた。
返信は複数パターンが用意された定文型の文章をコピペするだけだけど、こう数が多いと中々面倒だ。SNSでもこちらが叩かれている。
なんでスイは何もしないでほっとけって言ったんだろ。
何日か経っても事態は悪化の一途をたどり、ユーザーは激減した。スイも帰ってこない。指示を煽っても「もう少し」とだけ帰ってくる。
「お前なあ、引っ張れるだけ引っ張ろうっつってもそろそろ足がでるんじゃねえの?」
『構わないよ。今は、何もしないで。相手から何を言われてもね』
スイは通話を切りやがった。
何もするなって言われても、気が急いてしまう。問い合わせフォームには嫌がらせとしか思えない文章が届くし、あっちのサイトには新しい動画がアップされてて盛り上がりを見せている。「トリップできる」とか「めちゃくちゃキマる」とか過激な文言まで飛び交って、盗賊どもは宴会騒ぎだ。ますます形勢は不利になってきた。
数日後、海賊版のサイトの管理人から、偽物は手を引かないと訴訟も辞さないとかドヤったメールが来た。本物かどうかわからないけどそれっぽい書類のPDFまで付いてた。よくやるよ。
一応スイに転送しておいた。答えは驚くべきものだった。相手に全部くれてやれって。
動画もパスワードもユーザーも。サイトも閉鎖しろときた。
「お前マジかよ」
『うん。サイトがメインなわけではないし。そろそろ危うくなってきてるしね』
電話の向こうのスイの声は、凪いだ湖面のように落ち着いていた。
「こんなんハッタリだろ。折角いいところだったのにさ。お前だって何日もパソコンに張り付いてただろ」
『・・・レンは優しいね』
「は?!」
『見ていてくれる人がいるって、嬉しいものだね』
笑顔が思い浮かぶような穏やかな声色に、なんだか耳がくすぐったくなって、「知るか」って通話を切ってやった。
ああクソッ。イライラする。このサイトに入れ込んでんのは、スイが努力している姿を真近で見ていたからだって気付いてしまったからだ。アイツはいつも、俺の目の届かないところで仕事をしているから。
でもまあ、アイツがそうしろって言うんなら仕方ない。だけど、ただやられるつもりはない。
俺はパソコンに向き合った。
明後日には、状況が一変する。相手から、サイトの権限をすべて返すとメールが来た。
いやいや、掌返しも甚だしいし、絶対怪しいだろこれ。だけど、スイのパソコンに向かう背中をふっと思い出した。
しばらくマウスに手を乗せたまま矢印を彷徨わせていたけど、消去ボタンをクリックした。
スイが、相手にするなって言ったから。詐欺師相手に滑稽な話だが、俺はこれでもアイツを信用しているのだ。
タイミングよく、その日の夜にスイは帰ってきた。黒い短髪にしていた髪は少し伸びて、ポロシャツにスラックスと清潔感のある格好だ。
例のメールについて話せば「それでいいよ」と微笑んだのでホッとする。
そして次の言葉に耳を疑う。
「多分、近いうちに閉鎖されるよ。そこ」
「なんで分かるんだよ」
「本職の人達に目を付けられ始めてたから」
「本職?」
「売人だよ」
背筋がゾッとした。ドラッグの売人にはマフィアの影が付いて回る。確かに電子ドラッグは、特別な設備も原料も運び屋も要らず、パソコンさえ出来れば出来てしまう。そしてドラッグよりはるかに安価で、出回れば商売上がったりだ。
サイトをこのまま続けてたらどうなっていたんだろう。だから掌を返してきたのか。そういえば、メールもピタリと無くなった。
でも盗賊どもがどうなろうと俺達には関係ないことだ。それに、サイトを閉鎖する数時間前、載せていた動画のセキュリティを全部外しておいたしな。他所で転載されまくっていると思う。アリババの忠実な女奴隷が扉に印を付けて、主人の家の見分けをつかなくしたように。果たして今、あの動画に価値が残っているかどうか。
まあ、それもどうでもいいことだな。
「メシでも食いに行くか?」
「帰ってきたばっかりなのに」
そう言うが、スイは笑っていて満更でもなさそうだ。
俺はスマホを取り出す。パスワードと言う名の呪文を打ち込み鍵を開け、アブラカタブラと唱えるように検索すれば、店の名前やメニューの写真がずらりと並ぶ。ああでもないこうでもないと言い合いながら、結局デリバリーに落ち着いた。
十数分もすれば空飛ぶ絨毯よろしくデリバリーバイクがすっ飛んできて料理を届けてくれる筈だ。
インチキな護符を売り付けるよりずっと有意義な使い方じゃないか。
魔法の石版は、こうやって使うのが正しいに違いない。
end
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