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フー・ドッグ 前編
中国国際貿易センターは北京で1番高いビル群だ。
国貿駅から直通のショッピングセンターや商業施設が下層に入っていて、その上はオフィス、さらに上層には1600席の大ホールや五つ星ホテル、レストラン、展望台なんかがある。地上330mから見下ろす夜景は香港や上海ほど煌びやかではないけれど中々立派なものだ。ライトアップされた紫禁城や競い合うように光を灯すビル群や街並みは見応えがある。
俺は今日、このビルに用がある。
地下鉄国貿駅からホテルの入り口に向かった。
長い髪をハーフアップにして、紺に白い花柄のシアーワンピースを着て金色のハイヒールを鳴らしながらエレベーターに乗り込む。横浜の店でも女の格好をしていたから、仕事だと思えばさほど抵抗はない。
最高秒速10mの高速エレベーターは30秒足らずで俺を71階のホテルのフロントに連れて行った。
マスカラをした睫毛を伏せ、目だけ動かして今夜の客を探す。
目印の臙脂のネクタイをつけた、スーツ姿のオッサンをソファで見つけた。中肉中背の、これといって特徴のない日本人。年は四十代半ばってとこかな。
そちらに近づけば、オッサンは目を見開いて俺を上から下まで視線でなぞる。それから破顔した。俺は黙ってニッコリ頷く。
腰に手を回されたままチェックインし、部屋に入るとボストンバッグを下ろして前開きのワンピースを脱ぐ。その下は袖無しのミディアム丈のチャイナドレスだ。鮮やかな赤色と深いスリットから覗く白い脚に、オッサンの視線が這う。
そこからはまあデリヘルでよくある流れだ。
バスルームに入ってソイツの身体を洗って口と局部を消毒して、プランと料金の確認をする。
が、バスルームで待つソイツの前で俺が口を開けば
「アンタ男だったのか?!」
って喚き始めた。
「そうですよ。確認なされませんでしたか」
わざわざ日本語で話してやった。
「するわけないだろ!」
「ではキャンセルということでよろしいですね」
「当たり前だ」
「かしこまりました。出張費のみいただきますね」
余計に煩くなったから、売春はここじゃ即逮捕案件だということ、報奨金が貰えるからスタッフにバレたら即通報されてもおかしくないということ、会社にバレたら当然クビだってことを懇切丁寧に教えてやった。こっちには失うものなんてないから通報するなら好きにすればいいってのも付け足しといた。
キッチリ言い値を払ってくれたよ。ヤツの名刺を貰っといたのも効いたかな。
ワンピースを着て部屋を出た。
地下鉄に戻ってモールに入る。こういうとこには多目的トイレがあるからありがたい。
メイクを落とし、チャイナシャツとクルー丈のパンツ、スニーカーに着替えて地下の駐車場に入る。一台の黒い車の中に乗り込んだ。
「お疲れさん」
後部座席で歯を見せて獰猛に嗤うのは、スイではなく、強面の若い男。
アシメントリーに流した黒い髪の片側にトライバルの剃り込みを入れている。全身真っ黒の服だけど、ゴツいシルバーアクセサリーが耳や指や首元でギラギラと威嚇するように輝いていた。
さっき客から巻き上げた金を無造作に渡せばニヤリと犬歯を見せ、運転席に座る細身の男に渡した。眼鏡をかけ髪を肩口まで伸ばした横顔は繊細そうな印象だ。だけど、その面持ちと黒スーツに似合わない、黒革の首輪が異様な雰囲気を醸し出す。そこから伸びる鎖は後部座席の男の手に握られていた。
「今日はこれで終わりか?」
口も効きたくなかったから黙って頷く。車から出ようとすると、腕を捕まれた。顔が近づき、唇を奪われる前に顎に掌底を喰らわす。が、手首を掴んで止められた。運転席の優男に。俺の腕の肉が盛り上がるほど、ヤツの指が食い込む。
眼鏡の奥で目がカッと開いて「コロスぞこのガキ・・・」と唸り声が這い出てきた。
「離せクロ」
俺の隣の"飼い主"に命令され、運転席のクロは手を離した。でもまだナイフのように目をギラつかせながら俺を見張っている。
「あーあ、痕ついてんじゃねえか。レンは"商品"だぞ?ちったあ考えろこの駄犬!」
俺の手を見て、飼い主は運転席の座席を蹴る。
申し訳ありません、とクロはすっと凶暴性を引っ込め前に向き直る。
大したことじゃない。確か黒のレースの手袋があったけな。俺は車のドアを開けた。
「なんなら泊まってくか?」
飼い主はニヤつきながら顎を上にしゃくる。
「借金がチャラになるなら喜んで」
「いい加減にしろよこのビッチ」
「いい加減にすんのはテメエだよ、誰が口を効いていいっつった?」
飼い主は鎖を引っ張る。クロの喉が圧迫され「ぐっ」と声が聞こえた。苦しげに目元が歪むが、かすかに気色ばんでいる。
変態どもにこれ以上付き合っていられない。
「ベニヒコ、次はいつだ」
飼い主ーベニヒコに尋ねれば、「来週」と口角を片側だけあげ悪人面に拍車をかける。
「わかった」
そう言い捨てて、振り払うようにドアを閉めて駐車場の出口に向かった。
飼い主のベニヒコと、その番犬のクロ。
ヤツらは、はるばる日本から俺を追っかけてきた借金取りだ。義理の親父の借金をおっかぶさられて働いていた風俗店で、キャストがトべば猟犬のごとく追いかけ客がゴネれば番犬のごとく吠え散らかし金を毟り取っていた。
店にいた時から俺にやたら粘着してきたけど、まさか国を跨いで追っかけてくるなんて思わなかったよ。
ターミナル駅で小遣い稼ぎに観光客相手のガイドをやってたら、コイツらに捕まった。
でも幸いだったのは、スイの存在がバレていないことだ。下手に動かず取り敢えずヤツらの言うままに動いている。それに、こんなのスイにバレたらまた浮気だなんだって言われるに決まってる。
アパートに戻っても、スイは居なかった。
ホッとしたような、もの寂しいような、妙な気分だ。スマホでニュースやメッセージを確認する。スイから連絡は入っていない。
電子書籍を読んでもテレビをつけても内容が頭に入ってこなくて、さっさとベッドに横になった。
朝になれば、スマホにメッセージが入っていた。
スイからだ。
飛び起きてスレッドを開けば『新聞買ってきて』とだけ書いてある。たまにこうやって"おつかい"を頼まれる。何に使うのか知らないけど、スイがそれを持っていった後は口座の残高が増えている。
アパートから出て、路面店や屋台が並ぶ通りに朝飯を食べに行く。郊外にはまだこういう通りがあって、通勤の途中の奴らが道のど真ん中にバイクや自転車を停め、軒先のテーブルで思い思いの朝食を摂っていた。
店先のガスコンロにはデカい中華鍋が鎮座していて、朝っぱらから油が沸いている。その甘さの混じる香ばしい匂いとか、鉄板の上で小麦の生地が焼ける匂いとかが店の前を通るたびに入れ替わり立ち替わり漂ってくる。
いつもは油条と甘みのついていない豆乳ですませるけど、今日は腹が減っていた。夕食を食べたかどうかも覚えていない。
煎餅果子っていう分厚い惣菜クレープを頼んだ。卵とか細切りにしたジャガイモとか茎わかめとか油条が小麦粉でできた薄い生地に巻き込まれている。ボリュームが凄いけど生地に塗ってあるピリ辛の味噌の味で割とサクサク食べ進められる。
アパートに向かいながら頬張っていたら、小汚いガキがいつの間にかまとわりついてきた。165センチしかない俺の腰あたりくらいの身長で、ボサボサの黒の短髪。三つ折りにした新聞を突き出して訛りだらけの中国語で喚いている。ボられるのが目に見えていたから無視してたら、新聞の間からチラッと白い紙が見えた。足を止めてガキの目をじっと見る。
「从谁? 」
って聞いても俺を睨むように見ているだけだ。まあ大した値段じゃなかったから言い値で金を渡してやったらすぐどっかに走って行った。
アパートの部屋に戻って新聞を広げれば、不動産の所得証明書と身分証明書が挟んであった。
多分、近々これを取りにまた帰ってくると思う。
顔がニヤつきそうになったけど、どうせまたすぐ出ていくんだろうなと浮ついた気持ちが淀む。
帰ってきてもセックスして終わりだし。恋人らしいことがしたいわけじゃないけどもやもやする。性欲処理の為だけに来てんじゃないだろうなアイツ。
スマホを見れば、またメッセージが入ってた。
『なるべく家にいて』って。どっかで見てんのかってタイミングだな。だったら早く来いよバーカ!
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