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最終話③ 天女の苑
レンのスマホのGPSが、電波を飛ばさなくなった。
見失った場所は横浜市内の幹線道路。
車がいつもひっきりなしに通っている。最悪の事態も頭によぎったけど、事故を起こした形跡はなく報道もされていない。
どこに行ったんだろう。スマホを無くしただけならいいけれど、着信の履歴も残されていた。GPSが使えなくなった時と同じくらいの時間だ。
不安の種が胸で燻り、心臓を熱くする。こういう時確認することを思い出して頭を冷やした。
まず、他のGPSや通信機器が生きているか確かめる。レンに節目節目で贈っていたものの中にいくつか忍び込ませてある。
たとえばスニーカーの底、たとえばカバーを二重にしたライターの中、たとえば、チャイナジェイドの指輪の石の下ーーーー
アプリを次々起動させれば、指輪についた石のように小さな光が地図上に灯る。
東京方面の山奥だ。殺されて埋められでもしたんじゃないかっていう想像が過るけど、レンはまだ借金を残しているし、バラして中身 を売るにしてもこんなすぐに殺されたりしない。
あとは、誰がレンを攫ったか。
1番に考えられるのは帝愛妃に関連する団体だ。番犬たちはまだ中国にいるみたいだし、新しい人を雇ったのかな?
調べなきゃいけないことは山程あった。よからぬ想像に囚われて立ち止まっている暇なんてない。
でも何よりも先に、レンの無事を確かめたかった。
『ああ、レンくんのこと?教えて欲しい?
うん、わかった。
僕と一緒だよ。いや本当に。うん、無事だよ』
何人か情報屋を当たればカーディス・フリンディアという人に行き着いた。この人はなんでもできるし便利だけど、気に入らないことはやらないという気分屋で扱いづらい。更に男女問わず浮名を流していることでも有名だ。レンに会わせろってうるさいからなるべく関わりたくなかった。
『要件はそれだけ?じゃあ切るね』
「なんで貴方といるんですか?」
『だって、おつかいを頼まれたから』
ああ、この人が攫ったわけか。すーっと身体の中が冷えていく。
「誰に頼まれたんです?帝愛妃ですか?」
『怖い怖い声が怖いよ。これ以上聞くなら"対価"を貰うけど?』
「わかりました」
『天保組の幹部から頼まれたんだ。帝愛妃の新しいオーナー。借金を返し終わるまでは生かされていると思うよ?』
じゃあしばらくは大丈夫そうだ。でも、レンが他の人に触れられるなんて考えただけでおかしくなりそうだった。
早く迎えにいかないと。それに相手どるのが『帝愛妃』ならなんとかなりそうだ。
でも、レンを確実に取り戻すためには、もう少し時間が必要だった。
ーーーーーーーーー
「ーーー時間?」
対価を寄越せと迫るカーディスは、俺の"時間"が欲しいと言ってきた。どういうことか聞けば
「僕と四六時中一緒にいて欲しいってこと」
とニッコリする。
「いつまでだ」
「僕の仕事が終わるまで」
「俺を見張ることか?」
「そう。一週間くらいかな」
「・・・なかなかのワルだなお前も。アンタが見張っている間、俺に逃げるなっつってんだろ。で、その期間が過ぎれば報酬を貰って俺を連れておさらばってわけか」
「ふふ、話が早くて助かるよ。それに、スイくんはしばらく迎えに来られないみたいだし」
「お前」
「スイくんには何もしてないよ。本人から聞いただけ」
いつ、と聞こうとしたが、さっきカーディスがスマホを持って部屋を離れたのを思い出した。
「スイはなんて?」
「『浮気はダメだよ』だってさ」
脱力した。無茶言うなよ、ここがどんなとこかわかってんのか?まあ本番だけは避けられ無いこともないけど。
「さ、起きて。お店はもうとっくに始まってるから」
カーディスは俺の腕を引いてベッドから起こす。今から店に出ろって?本当に消耗品扱いだな。
けど店の中の様子や構造がわかるかもしれない。隙を見て逃げ出す機会を作るのにきっと役立つ。この男もまだ信用ならない。
浴室で化粧をした後、クローゼットの中にある服を引っ張り出す。
野戦服を纏う兵士のような気持ちで袖を通した。
宿舎の渡り廊下を通ってさっき見下ろした建物の中に入れば、別世界が広がっていた。
中国の女神、嫦娥 が住む月の宮殿を思わせる。
八作屋根の楼閣を中心に、連なる建物はすべて平家建てで屋根は瓦棒葺きだ。窓には中華風の飾りを施された柵が嵌め込まれている。楼閣だけで正面4間、側面2間とアホみたいに広い。
回廊に囲まれた中庭の中心にこんこんと湧き出る泉を模した噴水があり、蓮の浮かぶ池や灌木が植えられている。建物全体は青を基調とした照明に照らされ、水底に沈んでいるような、空に浮かんでいるような神秘的な雰囲気を纏っている。
宿舎がすぐ後ろに巨大な壁のように建っているが、ほとんど窓のない壁が照明をゆらゆらと反射して演出に一役買っていた。
店の見取り図を頭の中で描きながらうろついていれば、黒服が俺をめざとく見つけ部屋で客を待つよう言われた。
鏡のように磨かれた廊下を進み、客を部屋で待つ。中華ドラマでよく見る側室の部屋に模している。ただベッドはホテルのように上質なマットレスとピンと張ったシーツが敷かれていた。
さて、逃げるにはまずこの衣装をなんとかしないとな。
俺が着ているのは、宋代風の漢服だ。
上下ともに薄いクリーム色で、袖には月下美人が、一片裙と呼ばれる巻きスカートには萩がプリントされ帯は菜の花色。淡い月光のようなレモンイエローのシフォン生地が、両肩でひと針縫いとめられている。歩くたびにそれが天女の羽衣のようにたなびいた。
カーディスは月の女神のようだと歯の浮くような賛辞を送っていた。けどこんな裾も袖も長くて、おまけに飾り布がついた服は山に入れば邪魔になるだけだ。裸で逃げた方がマシだな。
おまけに下着まで本格的なやつで、ドロワーズに似た下履きの臀部を覆う部分が切り取られている。座ると尻が直接スカートに触れて落ち着かない。
部屋の中をうろついていると、俺を指名したスーツ姿のオッさんが部屋に来た。隙のない着こなしと余裕のある表情に金の匂いがする。紳士然とした態度で酒を飲んでいたが、酔いが回ると部下や家族への愚痴だの男娼へのこき下ろしだのを言い始めメッキが剥がれてきた。
節の目立つ分厚い手が太腿の間や漢服の袂に忍び込もうとする。ニッコリ笑って俺から手を引き寄せた。鼻の下を伸ばすオッさんの身体を反転させ、腕を首に絡めて締め上げた。死んじゃいないが意識を失ったソイツをベッドに転がし俺は服を脱ぐ。オッさんのスーツを剥いで身につけ、部屋を抜け出した。
森の中に入り、身を隠しながら建物の灯りを頼りにキャストの宿舎へ戻る。駐車場にカーディスのインテグラが停めてあったはずだ。
「僕との約束、忘れちゃったの?」
後ろから抱きとめられた。視界の端を金色が掠める。両腕を上げてカーディスの拘束を緩め、身を低くして腕をすり抜けた。そのまま地面に手をついて蹴りを食らわせる。が、足首を掴まれ、こともあろうかそのまま持ち上げられ逆さ吊りにされた。
「離せ!」
「ちゃんと待っていれば出してあげるのに」
「客を取ったなんてスイにバレたら」
「聞き分けのない子だね」
カーディスの青い目と言葉から温度がなくなった。足首を離され地面に落ちた。顎を持ち上げられ、しゃがんだカーディスと目が合う。人形のように表情の抜け落ちた顔にゾクリとした。
「あのね、僕は人を殺せないけど、死なない程度にお仕置きすることならできるよ」
カーディスはスマホを取り出す。何やら操作して画面を見せてきた。
閃光が炸裂した。視界が白く塗りつぶされる。脳味噌が脈打つように痛んで、同時に目眩がした。
なんだこれ。既視感があるような気がするけど、目の前がグルグルして気持ち悪くて思い出せない。
「これね、スイくんが作った電子ドラッグを、もっと強力にしたやつ。彼、これで小遣い稼ぎをしてたでしょ?僕も少し手伝っていてね。報酬にデータと著作権を譲ってもらったんだ」
静かな声なのに、頭の中に言葉がガンガン響いて割れそうに痛い。目を閉じても極彩色のモザイクがかかる。
なんか既視感があると思ったら、ゲームや3Dの映画に酔いそうになった時の感覚に似ている。
「"月泉楼"で買ってくれたよ。"集会"でも使ってくれるってさ」
やっと頭痛が引いてきて、ぼんやりカーディスの顔が見えるようになってきた。
でも手足に力が入らず地面に接している感覚もない。ふわふわして空中に漂っている感覚だ。最悪なことに心地よさすら感じる。
カーディスに横抱きにされ、客を迎える部屋に戻された。それが分かってても手も足も出なかった。だいぶ酒を飲んだからか、オッさんはまだ高いびきだ。
カーディスは俺をベッドに寝かせて
「後は上手くやるんだよ」
と部屋を出て行った。
しばらくベッドの上で呆けていると、夢から覚めたように我に返る。起き上がるとまだ少しくらくらした。ハッカーってあんなもんも作れるのか?いや、なんでも屋みたいなもんだって言ってたっけ。
クソッ、頭が回らない。けど、なんとか誤魔化さないと。
のろのろと服を脱ぎ、キャミソールワンピースに似た下着だけ身につける。そうして事後を装い、時間になってからオッさんを送り出した。
その後は指名が入らず、かと言って逃げる気にもならず、営業が終わる時間までお茶を引くことになった。
次の日は朝1番に叩き起こされた。ドアを激しく叩かれ、寝ぼけ眼で出れば若い男に中国語で捲し立てられた。同じくキャストだと言うソイツの話では、宿舎の掃除も食事作りも片付けも自分たちでやるらしい。
廊下に出ればもうモップかけをしたり窓を拭いたりしているやつとすれ違った。顔つきはみな沈んでいる。目の周りにクマができている奴もいた。昼前まで外の草むしりをやらされ昼メシも食わずにベッドに身体を沈めた。そのまま夕方まで意識は浮上せず、変な時間に寝てしまったからか身体が重かった。
これから仕事の準備をしなけりゃならないことを考えると最悪だった。それにこんなことを毎日続けていれば体力も気力も削がれる。逃げることより休むことしか考えられなくなる。
こりゃインチキな宗教団体とかスピリチュアル団体でよくある手口だな。修行とか言って食事制限したり労働で身体を酷使させたりして、思考力や判断力を鈍らせるやつ。
この日は楼閣の2階にある、クラブのような広間でホステスのようにオッサンどもの相手をした。俺の他にもキャストが何人かいて、時々黒服が部屋の外を横切った。
これだけ人の目があったら身動きがとれない。抜け道や死角なんかはないか、シュミレートしながら接客した。
翌朝も部屋をノックされて起きた。今度はいくらか控えめに。
開ければ黒服が立っていた。新しいキャストが来るから面倒を見ろと言ってきた。
妙なことは考えるなと釘を刺される。逃げようとしたことがバレてるな。これから警戒が緩む気配もない。それに、新人たちの目もあるなら1人では動けなくなる。
駐車場に降りればマイクロバスが入ってきた。降りてきたヤツらを見てギョッとする。
どっかで見たツラだ。
1人は長身痩躯の男。剃り込みを入れたツーブロックの髪型と頬骨の出た顔が人の群れから頭一つ分飛びだしていた。その後ろには、首輪と眼鏡を身につけた長髪の青年。
ベニヒコとクロ。
三白眼と、眼鏡の奥の切れ長の目が俺を射る。緊張感に空気がずしりと重くなるが、ヤツらは俺を一瞥しただけで視線を外し、舌打ちだけして新しいスタッフを連れて行った。|商品《キャスト》でいるうちは手を出せないはずだからな。
残ったのは2人だった。綺麗な顔立ちをした青年と、童顔のガキだ。強張る顔とここはどこかと忙しなく動く目に、まだ何も知らないとピンときた。コイツらが使えないか?
建物に入ってから、ここは身体を売る場所だということ、男同士のセックスの仕方やその下準備の方法まで、拙い中国語で懇切丁寧に教えてやった。
思った通り、2人は顔を青くしたり赤くしながら聞いていた。童顔のやつはどんな仕事でも大金が貰えるならやると言い、もう1人は綺麗な顔を蒼白にしたままだった。こっちかな。
童顔のやつがいなくなった後、逃げようと持ちかける。ソイツは言葉も出ないようでただ頷いていた。
けど、せっかく得た協力者も日にちを重ねるごとに疲弊して、ただ淡々と仕事をこなすだけになった。
"集会"が近いとかで仕事が増えたのもある。
番犬どももうろついている。カーディスはクソどうでもいいようなことを毎日しつこく話しかけてくる。
そういえば、カーディスの言っていた1週間後というのは集会の日らしかった。この日に何かあるのか?そう聞いたら「僕を信じてくれたら話してあげる」とほざいていた。
結局俺は何もできず、疲労だけを積み重ねたままその日がやってきた。
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