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第8話
「どうした、桐島」
「え?あ、ああ……」
「飲めよ」
「うん」
桐島は少し震えている手でグラスを持った。芳醇な香りが広がる。するりと飲めてしまう舌触りのよさ。ワインの知識があまりない桐島でも、これは高価なものだとわかった。
「……すごくおいしい」
「そうか。よかった」
黒沢がグラスを置く。
「赤には好みがある」
「黒沢がワイン好きとは知らなかった」
「接待のためだ。別に好きじゃないが、おまえにはワインが似合うと思ってな」
「……そうかな」
あまり酒の話には触れたくない。その雰囲気がわかったのか、黒沢は、もうなにも言わなかった。二人は黙ったまま、運ばれてきた皿に手をつけた。
メインの皿が来てしばらくすると、黒沢がナプキンで口を拭うと手を重ねた。そのきれいな手に見とれていたが、桐島はふと、あるものに気づいて硬直した。指輪。いつの間に。しかもよく見ると左手の薬指に。ナイフとフォークを置くと、桐島は慌てて手をテーブルの下に下ろした。指がかたかたと震えた。それに気づいたのか、黒沢が切り出した。
「実は最近、親父がうるさい。結婚しろと」
言葉が出ない。桐島はうつむいた。
「俺の両親は去年、離婚した」
「え……」
桐島はそっと顔を上げる。別になんでもないことのように、黒沢はこちらを向いていた。けれど、いつもの視線とは明らかに違う。射るような、まなざし。怖くて逸らすこともできずに、桐島は息を呑んだ。
「お袋は親父にかまわれない淋しさを俺で紛らわせようとしたんだな。俺のすることすべてに干渉してきた。俺が大学時代に一人暮らしを始めたのもそのせいだ。今度は他に男を作った。別にそのことを俺は責めるつもりはない」
家庭のことを聞いたのは、初めてのことだった。この三年、仕事のことを時折ほんの少しもらすことはあっても、こんな具体的な話をされたのは初めてだ。嫌な予感がした。そういう勘は、哀しいことによくあたるものだ。視線を外せない。怖い。もう、聞きたくない。
「おまえにはまだ話したことはなかったが、俺は本気で社長の椅子を狙っている。あの親父だ。息子だからと言って、俺を後継者に選ぶようなことは決してない。俺が副社長に就任したのは、あの時、適任な人材が、公平な目で見て俺しかいなかったからだ」
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