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第9話
手の先から全体に冷たくなる。その先はもう聞きたくない。けれど、黒沢は続けた。
「おまえと暮らし始めて三年。おまえは振り込んだ金に手をつけたことは一度もなかった。おまえの父親の負債や母親の治療費もすべて俺が払ったが、おまえはそれだけの対価を俺に返した。なにもかも、俺の言う通りにしてきた。吐きながら。薬を飲みながら。苦しみながら。……もう、いいだろう」
黒沢は黒い小箱を桐島の前に突き出した。なにもかも、知っていたのか。身体が震えて、いうことを利かない。もう一度、黒沢がそれを揺らした。
「自由になるんだ。敦司。そして、おまえの心のままに生きていくんだ」
「なに……それ……。……手切れ金かなにかのつもり……?」
「どうするかはおまえの自由だ」
涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。爪が食い込むほど、強く手を握る。こんな一方的な別れ方があるか。一方的にこの身体を、この心をさらっておきながら。傲慢だ。こんな裏切りは心外だ。桐島は初めて、黒沢を憎いと思った。「俺を、こんなにしやがって」。あの日、あんなことを言ったくせに。選択権など、与えなかったくせに。
桐島は黒沢を睨んだ。初めて感情をぶつけられて、黒沢は少しだけ驚いた表情になった。
いや、違う。理解してもらえなかったのが悔しいのだ、と桐島は思った。桐島は、本当に黒沢といたかったのだ。あの時、強くそう願ったのは、自分の方だったのだ。確かにこれまで黒沢の言うがままだったと彼は言うけれど、それは桐島の望んでいることだったのに。黒沢が、自分の世界だったのに。それが桐島の絶対唯一の自由だったのに。望みだったのに。それを断ち切るなんて、許さない。桐島は言った。
「……今更……そんなこと許さないから……。俺を捨てるなんて……許さない。おまえを殺してでも……俺のものにしてやる!」
自分の言葉に驚いた。けれど、それ以上に黒沢は驚いて言葉を失っていた。桐島は黒沢の手から小箱を奪い取って、彼に投げつけた。その瞬間、蓋が開いて、なにかがこぼれ落ちた。テーブルの真ん中に落ちたそれを、二人で瞬間的に見た。そして、桐島は目を疑った。
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