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9月10日 ver.翔
夏休みの間は、勉強だけに時間を費やすだけでなく、臨床実習先のアポイントもあったり、教授から呼び出され、大学に顔を出さなければならない日もあったり、それほどゆっくり、ゆったりと過ごせてはいなかったが、そんな日は、柳田が早めに帰宅できる日を選んで、柳田と外で待ち合わせて、一緒に帰る。
合鍵を持つことだけは断っていた。さすがに変なタイミングで、誰かと出くわすことがあってはいけないと思ったからだった。僅かな期間の間、部屋の一部を借りてはいたが、柳田からは、誰かの気配をも感じることはなかった。
「教授、なんだって?」
「…あぁ、臨床実習にウチの付属の大学病院を希望しなかったから、それについての説教ですよ。
いろいろありましてね。教授の点稼ぎの減点になりかねないらしくて。本当に面倒臭いですよ。
元々、研修生になったら、大学に戻るつもりだったし、そのまま勤務医になるつもりだから、それでって事で収めてきましたけど、実際問題として、1ヶ所しか知らない、って言うのも、考え方が偏りそうなので、他の病院も見ておきたいんですよ。知らないとこなら、甘えることもできませんからね。」
「翔くんは真面目だからね。集中し過ぎて身体を壊さないようにね。」
いつものようにニッコリと微笑まれた。自分のテリトリーに、互いに入り込んでいる所為もあって、段々と、好きだという意識が強くなっていく。この人の前でだけは、自分がかなりの無防備になっていることも自覚していた。
それを悟られてはならない。そう思いながら、その笑顔にうっかりときめいてしまう。顔が赤くなってなければ良いのだが、まだ、残暑厳しい季節柄、夕方のアスファルトからの放熱で、汗がじわじわと滲んでくる。それで、どうやら誤魔化せているように思う。
「ありがとうございます。ここのところ、何から何までお世話になりっぱなしなのに。」
「でも、夏休みも、もうすぐ終わりだね。また、週末だけの生活に戻るのが、なんか、寂しいと思うのは、僕だけかな?まぁ、男2人で住むにはプライバシーも何も無い部屋だから、元に戻るのが正解なんだろうけどね。当たり障りのない資料はウチに置いたままで、週末はウチで勉強すればいいと思うんだけど、どうかな?」
無意識の誘いほど、残酷なものはないと思う。
いつ、自分の気持ちが溢れてしまうか、が怖かった。
男を捕まえるなら胃袋から、とはよく言ったもので、その部分でも、完全に掴まれている。その気がない相手の胃袋を掴んだところで、柳田にとっては、何の得にもならないだろうが。
そして、その提案が、心底嬉しい自分がいる。この柳田の優しさと、目一杯甘やかされる生活に、慣れきってしまってはいけないのだと、心の中でその気持ちを閉じ込める。
きっと、この気持ちはハッピーエンドを迎えることは無い。だから、大好きな微笑みに、嘘の微笑みで返す。
いつからだろう。この微笑みに癒されていたはずなのに、この微笑が自分だけに向けられるものならいいのに、と思いだしたのは。眩しいほど目を細めて、切ない視線を向けたら、この人は気付いてくれるのだろうか。
この優しさがオレだけに向いてればいいのに………
嘘の笑顔の下にそんな気持ちを隠しているなんて、微塵も感じていないんだろうな、と思う。
それでも、この人の優しさに、少しでも長く触れているためには、この人の側にいる為には嘘をつき続けるしかない。きっと、この想いを知れば、この人は困ったように微笑むだけだろう。
そして、今のような関係は終わる。
「翔くん、今日は何が食べたい?」
「この間、食べたクリームパスタ、あれ、美味しかったから、あれがいいかな〜。今日は、一緒に作りましょうよ。レシピも知りたいし。」
「あんまりレシピ教えると、僕のところに来なくなりそうで怖いなぁ。あはは。」
そう言って笑う。その笑顔を見てまた、オレは薄く微笑む。自分にだけ向けられたその笑顔が嬉しい。
「それはないですよ。教えてもらっても柳田さんほど上手く作れないし。本当、敵わないんだよなぁ。復習しても、何が足りないんだろ、っていつも思うんですよね。」
「愛情じゃない?僕は、君の体調を第一に考えて作っているからね。」
また、そうやって、他人を煽るようなことを言う。
「料理って不思議だよね。食べてくれる誰かのためには美味しく作れるのに、自分のためだけに作る料理って、なんか美味しく感じないものなんだよ。僕も一人の時はそうだよ?だからバランスは考えるけど、腹を満たせればいい、っていう翔くんの気持ちもわからないでもないんだよね。ここのところは気合が入ってたからね。」
アルコールがなくても、普通に過ごせていたし、勉強をしている間は、柳田も自分の持ち帰った仕事をカチカチとパソコンに打ち込んでいた。
最初こそ、その音が耳障りなのではないかると聞かれるも、自分の部屋の現状を伝えると、
「キーボードの音くらいじゃ、翔くんにとっては雑音程度にもならないんだね。」
可笑しそうに笑う。柳田から聞こえてくるのはノートパソコンのキーボードを静かだが、ものすごい速さで叩く音と、たまに紙を捲るような音をさせるだけで、快適なほど静かにしてくれていた。
静かな部屋の中は、ふたりの出す鉛筆を走らせる音と、パソコンのキーボード音と紙を捲る音しか存在していなかった。けれど、ふたりで、同じ時間を共有出来ていることが、オレにとっては最高に心地いい時間だった。
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