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2月 ビルの谷間 Ver.翔
意味がわからなかった。これから結婚しよう、という人が、会社を退社しているなんて。
いつの間にか降り出していた、冷たい雨が降りしきる中、しばらくの間、彼の勤めていた会社を見上げていた。
あのマンションを引き払ったのは、結婚が理由だと思っていたが、それだけではなかったようだ。
あと一つ。一つだけアテがある。
あと一つだけ、試してダメなら諦めよう。
転居先も携帯の番号もわからない。
人というのは、こんなに簡単に忽然と消えることが出来るものなのか?と、思う。自分の行動が遅過ぎた、というのもあるだろうが、たぶん、徹本人の動きも、計算し尽くされたものだったのかもしれない。
徹が消えても、打つ手すら見出せない。試験が目前に迫っている状況下で、全く身動きが出来ずにいた。
大学生活も四年生終わりという、特に身動きの難しい時期の医大生としては、なかなか彼に辿り着けない。
それでも、もう一度だけ、会社の前に張り込み、出逢いの元凶ともなった鈴木を捕まえて、連絡を聞き出そうとしたけれど、それほどの時間を要さずに、たまたま営業に出る鈴木が出てきたので捕まえてはみたが、彼もなにも知らないようだった。
ただ、徹は、病気が原因で退職したのだと教えてくれた。
個人情報保護がどうの、などとは言われたものの、なんとか実家の住所や電話番号は調べてもらい、連絡をしてみたが、そちらには行ってないそうだ。
徹の根回しは十分過ぎるくらいで、たぶん、知ってるであろう連絡先も、教えてはもらえない。個人情報保護が大きく取り上げられている世の中で、知らない人間から、突然『貴方がたの身内の連絡先を教えてください』と連絡があったところで、教えてくれる身内は早々いないだろう。
それでも、彼の身内だけに人がいいのだろう。都内にはいるんじゃないかな?と曖昧に答えてくれたものの、結局は誤魔化された。
東京のどこかにいるなら、どこかで偶然に会えるかもしれない。確率なんてものは、低いのは承知の上だ。
場所、タイミング、偶然に必要な素材を集められるかどうかすらわからないのだ。少なくても、自分がこれから前期研修医以降、勤めるであろう自大病院には、足を運んでくれることはないだろう。
完全にお手上げ状態だが、もうすぐオレも臨床実習が始まるにあたっての試験がある。
ここで引っかかってしまっては、留年が確定してしまう。ただでさえ長い大学生活を無駄にするわけにはいかない。
彼のことばかりを考えてる時間は、残念なことになくなってきていた。オレは実習先を自大学病院外で希望を出していた関係で、色々な手続きにも追われていた。
ある区立病院に知り合いが居た為、そこでの臨床実習を受けられるように頼み込み、話は通してもらってあった。元々、外科を希望していたので、ある程度の受け入れを選ばない病院を希望したかった。
奇 しくもそこは徹と初めて連絡先を交換した病院だ。
特に重視をしたのが鈴木が運ばれた救命救急だった。そこの江越医師とは古くからの知り合いだった。
そして、その選択が、この先のオレ自身を苦しめることとなることを知るのは、それほど先の話ではなかった。
無事に※CBTも※OSCEも合格し、大学も無事に五年生になり、臨床実習が、間もなく始まる。(※下記参照)
もう、その頃には、彼が選んで自分の元を去ったことを受入れ、柳田徹という人物には幸せになって欲しい、付き合っていた時の、その思い出だけで十分だと思えるようになっていた。
一瞬でも思いが通じあって、愛のあるセックスが出来て、甘く触れ合った思い出だけで自分を支えられる、そう思い始めていた。
※CBT (computer based testing)
コンピュータを利用して実施する試験方式のこと。受験者は、コンピュータに表示された試験問題に対して、マウスやキーボードを用いて解答をします。全コンピュータがランダムに出題をする為、隣や前後の人と問題が一緒になることがなく、カンニングが絶対に出来ないようになっている。
※OSCE (objective structured clinical examination)
客観的臨床能力試験
基本的な技能、及び、態度を客観的に評価する為に開発された評価であり、「実地試験」や「模擬患者が参画するシミュレーションテスト」に相当します。
患者、来局(調剤薬局)者対応、
薬剤の調整
調剤監査
無菌操作の実践
情報の提供
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