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12月 ② Ver.徹

翌日から僕の身辺整理が始まった。 とりあえず余命宣告のこともあり、僕は上司とさんざん話し合い、休職を勧められたのだが、退職願いを出した。 休職願いを出したところで、僕は会社に戻れる保証が確実にないからだ。 事情が事情だけに、会社からの待遇はかなり良かった。 仕事の引き継ぎから始まり、職場や自宅の荷物の整理も同時に始める。会社にいられる時間はあと一ヶ月と少し。 身体が動く間に何とかしなければ、という焦りはかなりあったが、元々、一緒に作業していた同僚への引継ぎは、想像以上にスムーズだった。 「1人でこんなに抱え込んでたんですか〜?よく、これだけのものをこなしてましたね。」 と、ウンザリ顔で言われたが、1人に引き継ぐのは不可能だった為、数人の部下を相手に、スムーズ、と言っても、1ヶ月、まるまるかけて、じっくりと引継いだのだ。 2月の末までで、事実上の退職し、上司の計らいで休職扱いでしばらくは療養に当てられ、期限消化後は会社復帰が見込めないと判断し、有給消化にあててくれる、と経理から言われた。 その支払いが終わってから退職金が振り込まれるらしい。 積立のように毎月支払っていた、会社の保険金の適応の手続きまで、やってくれるというのは助かった。会社としては、労災に回すよりも、よほどの体裁が良いのもあっての事だろう。仕事で怪我をした訳では無いので、労災扱いはされないだろうが。 別口に入っていた生命保険の受取人は、姉になっている。入院や通院の保険金と余命半年の宣告を受ければ貰える死亡保険の半分を貰い、個人でも多少保険金が支払われる、というので、その分はしっかりと受け取り、残りは葬式代として、姉に残す。さらにお釣りが来るくらいの金額は遺すつもりだ。 それほどにまで、溜まっていた有給にも驚きだが、それでも、消化しきれず消滅してしまった有給も数ヶ月分もあったのだ、と総務には言われた。どこまでワーカーホリックだったのかを思い知らされた気がした。動けるうちに済ませなければならないことは山のようにある。 どれくらい動けるのか、それすら予測がつかない。1〜2ヶ月はなんとかなっても、その後はわからない。入院費やこれからかかるであろう車椅子のレンタル料、引越し費用や、家賃、その他薬代がいくらかかるかわからない中、多少の収入がまとまって入るのは有難かった。 年末の休みを利用して、実家へ報告に行くことにした。もう片親だが、母は介護が必要な身体だし、姉はその介護と、それなりに大きくはなっているはずだが、まだまだ子育てに追われてる。 姪にも甥にも義兄にも土産を買い、姉にも東京土産と言えるものをいくつか購入して羽田から飛行機で北へ飛んだ。 先週は人間ドックで仕方なかったが、今週は法事と称して、年末年始をいいことに、それを利用してまで、翔に会うことを避けていた。 自分の命や私物の処分、今まで疎遠にしてた家族にも、最後になるかもしれない話が出来るいい機会だし、あきらめはついているつもりだ。 他はなんでも受入れられるのに、翔のことだけは、全くというほど、心の整理がつかない。 けれどこのままにはしておけないのも事実だ。 何かしらの決着はつけなければならなかった。 翔には病状を告げる気はない。愛しているからこそ、最期の時間を、お互いに辛い思いで別れるのは酷だと思う。 弱っていく自分を見せたくない。それが心の傷になって、医師になる事への弊害にもなりたくもない。 別れる覚悟と計画は立てていた。 憎まれても、恨まれても、それを糧にして成長してくれるなら、情けない姿を晒すよりも傷は浅くて済むはずだ。 それでも、狡いのは、自分がそのテリトリーから消えるタイミングを図っていることだ。 それに、残された時間も少ない。翔を気遣う気持ちもあるのだが、今は自分のことで手一杯になっているのも事実だった。

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