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最後の一線 Ver.翔
数日後、救命から外科に移す患者とカルテを持って外科病棟へ行くことになった。ナースステーションでベッドとカルテをナースに引き渡せば要件は済む。
まだ、午前中だから児嶋は外来だろう。そう踏んでナースステーションへと向かったのだが、その考えが甘かったようだ。
ナースステーションの中で児嶋はナースに指示らしきものを出している姿があった。病室担当のナースに引継ぎ、救命に戻ろうと背を向けた途端に腕を掴まれた。
振り返るのが怖い……こんな恐怖を感じたのはいつ以来だろう。大きな男の手だとわかる。
間違いなく背後にいるのは児嶋医師だ。
「高宮くん、ちょうど良かった。君に話があるんだ。ちょっといいかな?」
軽い口調で尋ねるように語りかけてくるが、
オレに拒否権はない。
「………はい…」
振り向くことなく、不本意だが応じるしかなかった。聞きたいことはわかっている。
うな垂れるオレを連れて、腕を離すことなく、いつもとは違う廊下を歩み進んでいる。
全く来たことのないエリアの、廊下をひたすら無言でついて行く。
病室ではないのに、重厚そうな扉がいくつか並んでいるエリアに到着し、その中の一つの扉を開けて、部屋へ誘導された。
いつもよりも長く歩く廊下を重たい足取りで歩み進めながら、覚悟を決めるしかないのか、まだ迷っていた。まだ、覚悟は決まってない。
以前、なにかの番組で見たじゃないか。
援交だって目を瞑っていたら嫌なことはあっという間に過ぎて、お金をもらえるんだって。
使える手段がない末期の患者に、なにをしてくれるのか?聞いてはいたが下手すれば徹の命だって早まる危険性だってあるのに……
どうなるのかはわからないけれど、その治験の薬さえあれば、本当に彼の今の病状をキープしてくれるのだろうか?
自分が目の前の男に抱かれるくらい大した問題ではないんじゃないだろうか?
『徹の為』と思いたながらオレは焦っていた。大切だからこそ守らなければならないものがなんなのか、わからなくなっていた。
「…答は出たかな?」
児嶋医者は余裕のある声で、患者に接するような優しい口調で問いかけてくる。
けれど、重厚そうな扉を閉めて、しっかりと鍵かかけられた。その途端に、児嶋の表情が変わる。ニヤリと嗤うその表情が、オレを凍りつかせた。オレはこの眸を、知っている。獲物を捕らえた獣の目だ。
背筋に冷たい汗が流れ落ちる。あの時のアイツの眸と児嶋の眸が一致した途端、呼吸が苦しくなる。未だにあの時のことはトラウマなのだ。
オレは、学生時代に強要されていた売春まがいの輪姦 を思い出してしまい、完全に怯えきって、目を見開き、身体も表情も無意識に強ばらせていた。
何人もの男に抱かれ続け、最終的には儲けた分だけアイツに甘やかされるようなセックスをされる……
援交のように、目を瞑っていれば終わるなんて、女子高生のような考えが甘かった。
あの時の悪夢が甦る。
そんな躰に気付いたのか、児嶋は余裕の表情で近づいてくる。軽く後ずさるが、それほど広い部屋ではない。あっという間に捕まえられ、腕を引かれた。
腰を抱き、顎を軽く持ち上げられ目を合わされた。完全に逃げられないように身体を拘束された躰に緊張が走る。
見開かれたまま、目線だけを逸らし、身体はガタガタと震えていた。それでも必死に声を絞り出した。
「……わかりません。ただ……オレは、柳田さんが好きなんです。だから一日でも長く生きて欲しい、とは思います。だけど、これが正解とは、思えないんです。」
「抗がん剤とは似て非なるものだから、癌の進行を抑えるが、従来の抗がん剤ほどの効果もなければ、副作用もまだ、はっきり言ってどれくらい出るか、は、わからない。
ただ、副作用が少ない薬として、新薬が開発されたんだ。これは治療目的のものではないし、まだ、あくまでも治験の状態なんだが。
薬がマッチすれば、多少の延命にはなるだろう?君は柳田さんがこのまま何もせず、亡くなるのと、薬が合って、少しでも今の痛みをや和らげて、僅かでも長く生きられるのは、
どちらがいい?」
………心が揺れる。
それで、少しでも長く、徹と一緒の時間を作れるのなら……
揺れる心のまま、彼の命を優先させたい気持ちが強まる。その所為か、緊張で強張った躰が弛緩する。その隙に部屋の奥に設置されたベッドへ引き摺られるように押し倒された。
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