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第2話

 大正時代に建てられたというネオ・ルネッサンス様式のこの洋館は、月舘家の初代が別荘として構えたものだ。  事業の成功によって莫大な富を築くとともに、国への貢献が認められた初代は男爵の爵位を拝領し、一族に繁栄をもたらした。ここ月岑(げっしん)荘の建設は財力と権力を誇示するための一大プロジェクトだったと言えるだろう。華族制度が廃止された現代でもなお、かつての威光を笠に月舘家は表舞台に立ち続けている。  世間から見れば名家ということになるだろう。  事実、月舘の男たちは代々議員名簿に名を連ねている。財力にものを言わせて顔を広げ、政界や団体にも太いコネクションを作ってきた。  だが、表向きの華やかさとは打って変わって、同族内の関係はギスギスとしたものだ。  そこには厳格な序列が存在し、その中でもまたドングリの背比べに一喜一憂している。とにかく比べることが好きなのだ。そしてはみ出しものを許さない。すべては『月舘男爵』と呼ばれたかつての栄光に縋るため、異常なまでに世間体を気にするのだった。  仁の家でもそれは同じだ。  家庭を顧みない政治家の父と、家のことはすべて侍女任せの母。上の兄は父と同じ道を目指し、二番目の兄はコネを使って生きている。三男の仁だけが弾き出された。  ───俺のせいじゃないのに。  そう。すべてはこのおかしな遺伝のせいだ。 壁に嵌めこまれた大きな鏡をチラと見ながら仁は深々とため息をついた。  月舘はとにかく血にこだわる。初代が興した事業も直系の長男が継ぐ決まりだ。現在は父の兄である伯父が月舘の長として後を守っていた。  一族で最も発言権のある人で、男子が生まれると必ず顔見せを行うことになっている。そこで赤子の将来性が見定められるのだ。迷信的な儀式ではあったが、初代の生き写しと言われた伯父の言葉を親戚縁者はありがたがって受け入れた。  不幸に拍車がかかったのはそのためだ。  仁が実の父親以上に伯父によく似ていたために、母親との不義を疑われた。親族の間で容姿が似るのはままあることだが、父親は事実を確かめることなく仁の存在を恥とした。仁に一族特有の体質が色濃く出たのもさらに拍車をかけただろう。そのため仁は家族から離され、今なお別荘という名の鳥籠に隔離され続けている。  おかげで、生まれてこのかた学校というものに通ったことがない。友達や恋人も持ったためしがない。勉強こそ家庭教師に教わったが、知識には偏りがあり、わからないことに出会すたびにインターネットに頼る毎日だった。 「これも一種のネグレクトってやつなのかね」 「仁様?」 「飼い殺しだなと思ってさ。……そんなに似てるか?」  壁の鏡に目をやると、守永が視線でそれを追いかける。 「仁様は、仁様のお顔をなさっておいでですよ」 「それも結局は意味ねぇけどな。忌々しい血は替えられない」 「ご先祖様を悪く言っては罰が当たります」  窘める守永に肩を竦める。鏡にはげんなりとした自分が映っていた。  日本人にしては彫りの深い顔立ちで、少し垂れ気味の鳶色の目にくっきりとした二重のアーチがかかっている。まっすぐな鼻梁や薄い唇は神経質な母親譲りだ。日本人離れした亜麻色の髪は月舘の初代を、そしていやが上にも伯父を彷彿とさせてしまい、一族の間では忌避の対象だった。  それでも、不義を疑われただけならここまで爪弾きにはならなかっただろう。  仁が隔離を余儀なくされたのは、月舘家にとって門外不出の極秘事項をその身に負っていたからだ。  仁は、人狼としてこの世に生を受けた。  月舘家の男子はその血によって程度の差こそあれ人狼として生まれる。勘の鋭いもの、夜目の利くもの、音や匂いに敏感なもの───そんな日常生活に紛れる程度の力から、仁のように月の満ち欠けに共鳴して体質そのものが変化し、満月の前後ともなれば自分でも抑えられないほど昂ぶってしまうものまで様々だ。  初代が目を瞠るほどの成功を収めることができたのも、人狼としての野生の勘が働いたおかげとも、競合相手に牙を剥いたためとも一族の間ではまことしやかに伝わっている。初代を崇拝しながらも、月舘の名を負う男たちに卑しい獣の血が流れていることを世間の目からひた隠しにしたい一族にとって、人狼の特性を強く持って生まれた仁は存在自体が禁忌だった。  もっとも、目に見えてわかりやすく狼の姿に変身したり、遠吠えをするわけではない。過去には獣の姿になって殺された同胞もいたそうだから、これも現代社会に適応した結果だろう。  それでも、満月の夜ともなると身体が疼くのはどうしようもなかった。  全身の血が沸騰するような、いても立ってもいられない心地になるのだ。どうしようもないほど好戦的で開放的な気分になる。  ドラッグと違うのは人間の比ではないほど身体能力が高まること。体力が無尽蔵になり、鋭い犬歯が生えること。なにより自分の意志などお構いなしに獣の性に支配されることだ。交配して子孫を残すという動物の本能が性衝動へと形を変えて理性を粉々にする。  そう言うと、守永はあからさまに顔を顰めた。 「お戯れも過ぎますと、すべてのドアと窓に鍵をかけなければならなくなります」 「冗談じゃない。月に一度のことだろ」 「ただのお散歩でないことは存じ上げておりますよ」 「それ以上は言わないところがおまえのいいところだよな」 「……」  老執事がなお目で訴えてくるのも無理はない。  情動に突き動かされるまま、満月の夜だけはなにもかも忘れて愉しむことにしていた。車がなければ来られないような山の上にある屋敷だが、体力のあり余る夜なら狼さながらに駆け下りるのも造作ない。暗い森を疾走して街へ下り、一夜限りの相手との後腐れないセックスに耽るのが仁の唯一の気晴らしだった。 「いつ月舘様のお耳に入るかと思うと、わたくしは……」 「心配すんなって。息子がなんの仕事してるかさえ興味がないような人なんだ。耳に入ったところで気にも留めない」 「仁様……」  守永が小さくため息をつく。彼もそれがあながち外れとは言いきれないとわかっているからだろう。  そんなふうに世間から切り離されたせいで独自のルールで育った仁だが、子供の頃に興味を持ったのは意外にも本だった。もともと別荘として建てられた屋敷ということもあり、余暇に楽しむ本なら山ほどあったからだ。  子供が読むには難しく、意味のわからないものもたくさんあったが、唯一の娯楽を得た仁はそれをきっかけに世界を広げた。本に没頭している間だけは嫌なことも忘れられた。現実ではなにひとつ思いどおりにならなくとも、物語の中では自由だった。  本の虫だった少年時代を経て、小説家になったのが今から七年ほど前のこと。  だが、一度として脚光を浴びないまま埋もれていこうとしている。こんなところでまで世を忍ぶのが自分らしくて笑ってしまう。  昔から重たいテーマを選びがちで、読者を突き放したような淡々とした筆致が読み手を選ぶと担当編集からは口を酸っぱくして言われていたが、今さらどうなるものでもないと諦めてもいた。  それでも、ほんのわずかでも読者がいるなら、小説は自分が生きた証をこの世に残せるかけがえのない手段だ。人々は著者が人狼とは知らずに本を読み、世界を共有してくれる。それだけでもう充分だった。  日々の執筆と、月に一度の性欲解消。それが今の仁を支えるすべてだ。  守永からすれば後者はやめさせたいことだろうが、こんな生活を続ける仁のガス抜きの手段まで奪うのは酷だと見逃してくれているのだろう。彼には悪いとは思ったが、今さら変えるつもりはなかった。  頭が空っぽになるような疾走感はセックスでしか味わえない。夢中で快楽を追っている間だけは生きていると実感できるから。 「どうかほどほどになさってくださいね。危ないことには近づかれませんように」 「わかってるって」 「仁様の『わかってる』ほど心配なものはございません」 「ははは。言うじゃねぇか。確かにな」  これまでいったい何度この言葉で結果的に欺してきたことか。  顔を見合わせて苦笑していた守永は、一呼吸つくなりおだやかな顔で一礼した。 「わたくしがお暇をいただいた後も、どうかお健やかにお過ごしください。守永は仁様のしあわせを心からお祈りいたしております」 「な…、なんだよ。急にあらたまって」  こんなふうに別れの挨拶をされると思っていなかったから、心構えがまるでなかった。こうしてみてはじめて彼がいなくなることを想像する。訪れるであろう大きな孤独も。  それでも、しみったれた顔が記憶に残ってしまわぬよう、仁は努めてあかるく笑った。 「おまえも元気で。……これまでありがとな。守永」 「はい。坊ちゃま」  いい雰囲気だったのに最後の最後、子供の頃のように呼ばれて思わず噴き出す。 「その呼び方はやめろって」 「申し訳ございません。慣れておりましたもので」  そんな仁を見て守永も笑った。  珍しく感傷的になっていたのを見透かされたのかもしれない。笑って終われるようにと気を使ってくれたのかもしれない。それほどに彼はよく気の利く男だった。  そんな守永も、数日後にはいなくなる。  それでも自分の人生は続くのだ。男爵の子孫として、人狼として、そして小説家として藻掻きながら生きていくことになる。  思うようにならない毎日でも、せめて少しでも抗ってみたい。いつか月舘という自分を縛る籠を抜け出し、自分の足で歩いていきたい。運命が変わるのを待つだけの弱い存在では終わらせない。それこそが彼の言った『しあわせ』というものだと思うから。 「俺、頑張るからな」  仁の言葉に守永は目を瞠り、それからすぐに目を糸のように細めて破顔した。 「えぇ、えぇ。その意気でございますよ」  たとえその瞬間を見せることはできなくとも。  長年世話になった老執事の目を見返し、仁は心に誓うのだった。

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