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第3話
月が皓々と照っている。
どこも欠けたところのない、白く大きな満月だ。吸い寄せられるようにバルコニーの扉を押し開きながら仁はそっと目を眇めた。
守永は一昨日、屋敷を去った。
最後まで仁の心配ばかりする彼に、これからは自身の身体を第一にしろと言い含めた。それでも名残惜しげにふり返っては何度も頭を下げる彼を無理やりタクシーに押しこんで、車が見えなくなるまで見送ったものだ。
これからは週に二度、ハウスキーパーが掃除と洗濯をやってくれることになっている。食事は惣菜などのデリバリーで当面の間凌ぐつもりだ。守永との生活があまりに長かったこともあり、すぐに新しい執事を迎える気にはなれなかった。
通いのハウスキーパーとは違い、執事は同じ家で暮らす相手だ。当然仁の生い立ちも、人狼という特性についても理解してもらう必要がある。つまり、月舘家最大の極秘事項を共有できる人物でなければならない。父親の息のかかった相手に四六時中観察されることを思えば多少の不便などなんでもなかった。
これからのことを思うと、不安がないとは言いきれない。
けれどふり返ってばかりいられないし、人狼として生まれた運命も変わらない。ならば今この時だけは血が求めるまま衝動に身を任せていようと、今夜街へ下りると決めた。
頭上には眩しいほどの満月だ。こうしているだけで神々しい光が身体の奥まで染み渡る。沸き立つ鼓動を感じながら眼下の暗闇に目を凝らした。
いつもなら墨を引いたようにしか見えない森も、夜目が利くおかげで今夜はその様子が手に取るようにわかる。ざわざわと風に揺れる木々に浮き立つ気持ちを煽られるまますぐにでも飛び出していきたいくらいだ。
いつになくがっついている自分がおかしくて、仁は小さくくすりと笑った。
「今回はちゃんと相手を選ばないとな」
逸ってもいい結果にはならないと先月学んだ。
身体の相性が合わなければ盛り上がらないし、人狼と人間では体力にもだいぶ差がある。だからこそ相手は見定めなければならない。快楽に貪欲で、こちらを煽ってくれるような頭のいい相手と一晩をともにできるなら最高だ。
ジャケットを羽織りながら両の足首を軽く回す。
玄関ホールの真上に位置する五メートル四方のバルコニーから飛んで地面に下りるのだ。こんな芸当ができるのも筋肉や骨の耐衝撃性が高まる満月の夜だけのお楽しみだ。
「よし。そんじゃ行くか」
大きく息を吸いこみ、美しい手摺りに手をかけた時だった。
一瞬、遠くの方でなにかが光る。
「え…?」
暗がりに目を凝らした仁は、それがものすごいスピードでこちらに向かってくることに気づいてとっさに身を躱した。
「───」
ビュン! という音が空気を切り裂く。スローモーションのように視界を埋めるものの正体が銀色に光る剣だと気づいた瞬間、全身にぞわっと鳥肌が立った。
「なっ……」
───なにが起きた…………?
呆然としたまま立ち尽くす。
突然目の前に現れた黒尽くめの男は、そんな仁などお構いなしにまっすぐにこちらを睨み据えた。
満月を背に覇者然と立つ男からは禍々しいほどの気を感じる。かなりの長身のようで、身長一七七センチの仁でさえ見上げるほどだから、おそらく一九〇はありそうだ。全身を漆黒の外套で覆った姿はまさに『闇』そのものに思えた。
こうして見ると五、六歳は年上だろうか。
ゆるくウエーブがかった黒髪が東欧的な美貌を引き立たせている。逆光にあってもその精悍さは損なわれることなく、彫りの深い顔立ちの中、目の覚めるような碧の瞳が爛々と光を放っていた。
おそろしく美しい男だ。
そして戦うことに慣れている。人狼の嗅覚でさえ捕えることができなかったなんて。
───なんだ、こいつ……。
無意識のうちに喉が鳴った。
この事態をどう捉えたらいいかわからず、狼狽えている間にも相手は一歩、また一歩と靴音を響かせながら近づいてくる。男が手にした剣が月の光にギラリと閃くのを仁は息を詰めて凝視した。
───これ、さすがにヤバイだろ。
あんな剣で切りつけられたら骨まで真っ二つになりそうだ。よく見れば、鍔から切先にかけて剣身五分の一ほどに見事な模様が彫りこまれている。幾何学意匠が施された柄頭は敵を打ち据えるためか、少し尖った形をしていた。まさに騎士が持つサーベルだ。
───嘘だろ……。ていうか、これほんとに現実か?
素早く左右に目を走らせる。
だいたい、ここは二階だ。しかも山奥に建つ一軒家だ。普通の人間ならやってこられるわけがない。
「あ!」
そこまで考えて合点がいった。
もしや、彼も人狼だろうか。満月によって自分と同じように力を得たのだろうか。
「おまえ……俺たちの仲間か?」
半信半疑で訊ねたものの、男は仁の期待などお構いなしに忌々しげに吐き捨てた。
「くだらん冗談を言うな。おまえら人間などと一緒にするなど」
「は?」
それこそどういう意味だ。
訝る仁をよそに、男はよく通る低い声で凜然と告げた。
「我が名は死神ランツェフィード。───月舘仁、おまえの魂を狩るために遣わされた」
「え? ……は?」
なにを言われているのか理解が追いつかず、頭の中がパニックになる。
「なんで俺の名前知ってるんだ。それにおまえ、死神って……魂を、か…、狩る?」
「おまえは私のターゲットだ」
コツ、とまたひとつ靴音を立ててランツェフィードが間合いを詰める。
「おまえはもうすぐ死ぬ。私が遣わされたということは、死期が近づいたということだ」
「俺が死ぬ……? 嘘だろ」
信じられない。まだこんなに元気なのに。
仁が顔を顰めても、そんな反応など想定内というように死神は肩を竦めただけだった。
「人間は誰もがそう言う。だがこれは運命だ。逆らうことは許されない」
決定事項として告げられて目の前が真っ暗になる。
どんなに思うようにならない毎日でも自分の足で歩くと決めた。運命を受け入れるだけの弱い存在で終わらせないと誓った。それなのに。その過程で力が尽きるならまだしも、なにもしないうちからゲームオーバーだなんてあり得ない。
守永との約束に心の中で頷くと、仁はキリリと顔を上げた。
「悪いがお断りだ。よそを当たってくれ」
「ほう……? 往生際の悪い男だ。よほど頭が悪いと見える」
「なんだと。ふざけんな。突然押しかけてきたくせに喧嘩売ってんのか」
「喧嘩? この私が? 驕るな人間ごときが」
「ほんっとムカつくやつだな。おまえなんてさっさと帰れ」
暗い森を指し示す。
だがランツェフィードは一瞥すらしないまま、静かに剣を構え直した。
「我は冥界の王に忠誠を誓い、尊い仕事を遂行する───」
厳かな宣言とともに彼の纏う空気が変わる。わずかにその身を屈めたと思った次の瞬間、ランツェフィードのサーベルが鋭い音を立てて空を切った。
「うわっ……!」
無我夢中で飛び退き刃をやり過ごす。ギリギリで避けられたのはまさに満月の奇跡だ。普段の自分だったら襲われたことすら気づかないまま死んでいただろう。
「逃がすか」
ランツェフィードは息もつかせぬスピードで二度、三度と剣をふるう。心臓のあたりに照準を絞っているのはそこに彼の言う『魂』があるからだろうか。胸をこじ開け、それを力尽くで抉り出そうとするかのように死神は矢継ぎ早に剣をくり出してきた。
仁は避けるので精いっぱいだ。すんでのところで躱してもすぐに次の一打が襲ってくる。ビュッ! と鋭い音を立てて眼前わずか数センチを通り過ぎていった切先にとうとう「おい!」と大声を上げた。
「危っぶねぇだろ! 殺す気か!」
「端からからそのつもりだ」
ランツェフィードは顔色ひとつ変えず、なおもサーベルをふるい続ける。あまりの一方的なやり方や防戦一方の現状に我慢がならなくなった仁は、わずかな隙を突いてその腕に犬歯を突き立てた。
「くっ」
ターゲットが反撃してくるとは思ってもみなかったのだろう。一瞬怯んだのを見逃さず、仁はさらに力をこめる。満月でいっそう鋭さを増した人狼の歯は漆黒の外套を突き破り、皮膚にずぶりとめりこんだ。
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