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第4話

 その瞬間、心臓がドクンとふるえる。これが人狼の本能というものなのか。 「この……人間風情が!」 「ぐ、っ!」  ブーツを履いた足で腹を横から蹴り飛ばされ、仁は勢いよくバルコニーの床を転がった。手摺りに強かに頭を打ちつけ息が止まる。痛みに呻いたところで、動きを封じるように喉笛に切先を突きつけられた。 「この私に刃向かったことを後悔させてやろう」  刀身が月の光にギラリと光る。  あ…、と思った時にはもう、剣の先が胸のすぐ前まで迫っていた。  ───やられる!  避ける時間すらなく、とっさに目を瞑ったその時。  キイィィィイイン───!  耳を劈くような甲高い音があたりに響いた。  仁は条件反射で床に伏せ、すぐさま両手で耳を塞ぐ。なにが起こったのかすぐにはわからなかった。  キイィ───……キイィン───……。  音はなおも強弱をくり返しながら鳴り続けている。  おそるおそる瞼を開けた仁は、だが異様な事態に目を瞠った。 「な……?」  サーベルだ。サーベルが鳴っているのだ。  その証拠に、ランツェフィードがサーベルを仁の胸に近づければ近づけるほど威嚇音のような音が鳴り、逆に遠ざけるとぴたりと止む。まるでサーベル自身に意志があって仁を拒絶しているかのようだ。頭に響く高音は死神も不快に思うらしく、ランツェフィードは眉間に深い皺を刻んだ。 「そんなはずはない」  声に怒気を含ませながら彼は再び剣をふり上げる。 仁は慌てて逃げを打ったものの足が縺れ、そのままドサッと床に転げた。 「死ぬがいい!」 「やめ───」  鋭い刃が眼前に迫る。悲鳴のような高音が響く。ためらうことなく突き出された剣に万事休すかと思ったが───サーベルは死神が狙ったであろう軌道を逸れ、なぜか中空へと抜けていった。  ───な、なんだったんだ、今の…………。  死んでもおかしくない距離だった。逃げる余裕なんてまるでなかった。彼の狙いは的確で、自分は動いてもいなかったのに。  ───剣の方が避けたっていうのか……?  まるで、仁に触れることを拒むかのように。  呆然とする仁と同様、ランツェフィードは切れ長の双眸をこれ以上ないほどに見開いて手の中のサーベルを凝視していた。 「どういうことだ……」  よほど想定外の出来事なのだろう。その声はわずかに掠れている。 「この私が目的を完遂しないなどあり得ない。なぜだ。なぜおまえには近づけない」 「俺に聞くなよ。知るわけないだろ」 「だがおまえがっ」  なおも言い募ろうとしたランツェフィードだったが、すぐにそれも無駄だと気がついたのか、険しい表情のまま首をふった。口元を覆ったままじっと一点を見つめている。その眼差しには不審と混乱、そしてプライドを踏み躙られた強い怒りが滲んでいた。  床に座りこんだままぼんやりとそれを眺めていた仁だったが、ざわざわと木々を揺らす風の音に我に返る。吸い寄せられるように立ち上がり、夜空に浮かぶ月を見上げた。  ───そうだった、今日は。  指折り数えた満月の夜だ。生きている実感を得るために街へ下りるところだったのだ。それなのに。  突然現れた死神と名乗る男におかしな言いがかりをつけられ、いきなり命を狙われた。出鼻を挫かれたどころではない。こんなことがあってなお、気を取り直して愉しもうなんて誰が思えるだろう。 「おまえのせいでせっかくの夜が台無しだ」  サーベルを鞘に収めたランツェフィードを睨みつけると、彼もまた不機嫌を隠しもせずに睨み返してきた。 「私にとっても最悪だ。おまえのせいでな」 「はぁ? そりゃこっちの台詞だろ。一方的に厭がらせしてきたのはどこのどいつだ」 「私の手にかかって死ねるなど感謝されてもいいくらいだ」 「おまえには厭がらせの概念も通じないのかよ」  ほとほと頭が痛くなってくる。仁は手で顔の半分を覆いながら長いため息をついた。  ほんとうなら今頃は好みの男を口説き倒してベッドに沈め、キスを貪っていただろう。目眩く一夜になにもかも忘れて愉しんでいたに違いない。  それがどうだ。  目の前にいるのは厭味すら通じない、とびっきりの石頭だ。威圧的で、高飛車で、融通の利かない大男。およそ好みとはかけ離れた、間違っても誘わないタイプだ。こんな男に満月の夜を邪魔されたのかと思うとあらためて怒りがこみ上げてくる。 「ちくしょう。こんなやつのせいで……」 「悔しがるくらいならさっさと魂を渡せ。この私がもらってやると言っているんだ」 「冗談じゃねぇよ。この石頭」 「今なんと言った」  ランツェフィードがギリとこちらを睨んだ。  なまじ造形が整っているだけに怒った顔には迫力がある。東欧を彷彿とさせるミステリアスな雰囲気が余計にそう思わせるのかもしれない。  だがそれも、意思疎通ができないこの状態ではただの美形の無駄遣いだ。話の通じない相手なら強硬手段しかあるまいと、仁は死神の胸倉を掴んだ。 「せっかくだからおまえの身体に教えてやる。厭がらせってやつをな」  グイと力任せに引き寄せる。ランツェフィードの身体が傾いだところへぶつけるようにして唇を塞いだ。

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