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第5話

『オメガだっ、オメガが発情したぞっ!』 『嘘でしょっ? こんな街なかで、信じられないっ!』 『誰か、早く非常ベルを鳴らせ! バース安全局に通報をっ……!』  アルファたちの悲鳴と怒号が飛び交う、白昼の官庁街。  夢うつつの意識の中に浮かび上がってきた緊迫した情景の記憶に、ナオは懐かしさを覚えた。今からちょうど五年前、十三歳のときの光景だけれど、あのときの記憶は鮮烈で、今でも時折夢に見たりする。  オメガという希少種に生まれついた者なら誰もが経験する激しい発情の発作、ヒート。  人生初のそれがあんなタイミングでやってくるなんて、まさか思いもしなかった。  それはナオにとって、手痛い洗礼のような出来事でもあった。  アルファ種やベータ種ばかりが闊歩するダウンタウンまでやってきたはいいが、手首装着型の携帯端末をなくしてしまった上、誰にも助けてもらえず迷子になったこと。  予期せぬ発情で苦しんでいるところに、オメガのくせに街へ出てくるなんて、と冷たい言葉を投げかけられて哀しい気持ちになったこと。  パニック寸前の混乱した状況を収め、緊急抑制剤の注射を打ってナオを助けてくれた安全局の局員に、もう何も心配はいらない、きみは「ジュピター」と我々が守る、と言われて涙が出たこと。  あの日起こったことを、ナオはまるで昨日の出来事のようにありありと思い出せる。  これから一体どうなるのだろうととても不安だったし、実際あのときの自分には、先のことなど何も見えていなかった。  もちろん、今だって自分の未来がすべて見通せているわけではない。  この国では誰もが「ジュピター」が推奨する学校に進学し、最良の職に就き、生体データから導き出された婚姻相手と結婚することを義務付けられている。  将来どこで何をしていて、誰とともに生きていくか、誰の子供を産むことになるのかすら、自分では決められないのだから。 (でも「運命の番」と結婚すれば、今よりも自由に街を歩ける)  オメガにとっての結婚の一番のメリットは、行動制限の解除と抑制剤の服薬からの解放であると言われている。 「ジュピター」による結婚相手の選定とその厳格な施行は、独り身のオメガに高価な抑制剤を投与して発情を抑え続けるよりも、ただ一人のアルファの「番」を決めることで、ヒートによる社会の混乱を防ぐという、社会政策でもあるのだ。  アルファ種とオメガ種の「番」の関係は、性の営みのさなかにアルファがオメガの首を噛むことで完成される。  アルファの番となったオメガは、体が相手に順応して変化し、以後そのオメガの発情フェロモンは、番の相手のアルファだけを昂ぶらせるものになる。  アルファもまた変化して、番以外のオメガのヒートには影響を受けなくなるのだ。  オメガは番のアルファの庇護を受けなければならない立場にはなるが、薬の時間を気にしたり、予期せぬ事態に備えて体を守る器具を装着したりせずに街を歩けるなら、それはとても爽快な気分であるのに違いない。 VRでなく、直接大学に通えたりもするなら、きっと楽しいのではないか。 「……ナオ、起きなさい」 「ん……」  肩を優しく揺り動かされて、ナオは目を覚ました。落ち着いた山小屋の室内ふうのインテリアホログラムを背に、青葉が優しげな顔でこちらを覗き込んでいる。  メディカルチェックと「触診」のあと、疲れを感じて自室のベッドで午睡していたのだが、時計を見ると現実世界ではもう夕方になっていた。  もそもそと体を起こすと、青葉が真っ直ぐにこちらを見つめて言った。 「聞きなさい、ナオ。実は先ほど、『ジュピター』から私宛にメッセージが届いてね」 「『ジュピター』から?」 「うん。きみの、婚姻相手が決定したそうだ」 「……!」  いきなりそう告げられて、一瞬言葉が出なかった。  まさかこんなに早く、その日が来てしまうなんて。 「明日、正式な文書が届く。後見人である私が受領してもいいが、きみが直接受け取ったほうがいいだろう。婚姻が正式に決まったんだ、きみももう大人だからね」  青葉が言って、慈しむような微笑みを見せる。 「おめでとう、ナオ。心から祝福するよ」  ナオの気持ちなど知らない青葉の言葉が、チクリと胸に刺さる。  ナオはただ、曖昧な笑みを返すしかなかった。 「あ、あのっ、本当に僕、ここに入ってもいいんですかっ?」 「? 当たり前じゃないか」 「で、でも、僕はオメガでっ」 「服薬はきちんとしているし、首を保護するチョーカーも子宮口保護具も装着している。何より後見人の私が一緒だ。オメガだからといって、何も気後れすることなんてないよ。さあ、おいで」  青葉が安心させるようにそう言って、手を差し出して誘う。  ナオはおずおずと彼の手を取り、導かれるままレトロな回転扉の中へと入っていった。 「……わぁ……」  微かな風圧とともに扉から出ると、眼前に広がっていたのは、広くて明るい吹き抜けのロビーだった。  歴史を感じさせる重厚な内装。  頭上高く、クリスタルガラスのシャンデリアがきらめきを放ち、そこここに飾られた薔薇や百合のフラワーアレンジメントからは、芳しい生花の香りが漂ってくる。  ガラス張りの壁面に添ってテーブルが並ぶカフェラウンジには、都会的でお洒落な人たちがたくさんいて、傍らの大きなグランドピアノからは、ピアニストが演奏する静かなクラシックの調べが流れている。  これらはすべて、VRの映像でもインテリアホログラムでもなく、現実の光景なのだ。思わずほう、とため息をついて、ナオは言った。 「すごい……」 「気に入ったかい?」 「はい。こんな素敵なところ、初めて来ました」  ナオの婚姻相手の決定通知が届いてから、二週間。  よく晴れた日曜日の今日、ナオは青葉の付き添いのもと、都心にある有名五つ星ホテルへとやってきていた。 「ジュピター」が決めた婚姻相手との、初めての顔合わせのためだ。 「少し早いけど、たぶん彼はもう来ているだろう。行ってみようか」 「は、はい」  初めてやってきた場所の心地よい雰囲気につい興奮してしまったが、本来の目的を思い出して、少々緊張してくる。  ナオの婚姻相手に選ばれたアルファは、青葉と同じ三十二歳の男性だった。  名前は佐野(さの)宗孝(むねたか)、職業は国家公務員で、現在は厚生労働省バース安全局統制課の管理官をしているらしい。  婚姻に際し、いたずらに予断を与えぬための措置として、当事者のナオが知らされている情報はそれだけだ。相手の顔も声も知らないのだが、バース安全局の局員には五年前に助けてもらったから、印象はいい。  どうしても避けられぬ結婚ならば、せめて優しく温厚な人であってほしい。  そう思いながら、青葉についてテーブルが並ぶラウンジへと入っていく。  すると生花の香りに紛れるように、どこからかほのかに甘い匂いがしてきた。 (なんだろう、これ。すごく、いい匂いがする……)  花や香水のような感じではない。強いて言うなら、お菓子だろうか。バニラに似た、甘くうっとりするような匂いだ。  思わずスッと吸い込むと、なんとも心地いい気分になった。  呼吸もわずかに弾み、鼓動もトクトクと速くなっていく。  こんな匂いを嗅いだのは、生まれて初めてだ。一体なんの匂いなのだろう。  どこから香っているのか知りたくて、きょろきょろと辺りを見回すと、青葉がそれに気づいて訊いてきた。 「匂うかい?」 「はい。甘くて、なんだかドキドキします。これ、なんの匂いかわかりますか?」 「ああ、わかるとも」  青葉が微笑んで言う。 「それはね、ナオ。『運命の番』の匂いだよ」 「え……?」 「私には匂わない。ここにいるほかの人たちも皆そうだろう。今ここでは、恐らくきみだけがその匂いを感じ取っているんだ。きみの婚姻相手も、きみの匂いを感じているはずだよ」  青葉が言って、ふふ、と小さく笑う。 「甘くてドキドキする匂い、か。やはり『ジュピター』による婚姻相手のマッチングシステムは、完璧だね!」 (みんなには、わからない……?)  こんなにも濃厚で、心までも沸き立つような艶めいた匂いなのに、ナオだけにしか感じられないなんて、そんなことがあるのだろうか。  半信半疑だったけれど、確かにナオの周囲にいる人は誰一人、何か気づいたような様子は見せていない。驚きで目を丸くしているナオに、青葉が促す。 「それほどいい匂いがするなら、きみ自身で相手を見つけられるかもしれないな。ナオ、ちょっと一人で歩いてごらん」 「えっ、で、でも」 「今のきみなら絶対に相手がわかる。匂いのするほうへ行ってみなさい」  少しばかり面白がっている様子で、青葉が言う。  街場で一人で歩く機会などほとんどないし、こんなにも人がたくさんいる場所も久しぶりだったから、なんだかまた気後れしてきてしまうけれど。 (この匂いは、なんだか僕を安心させてくれる)  匂いからは、何も怖い感じはしない。  どんな人かはわからないが、少なくともナオに会うためにここまで来てくれたのだし、青葉の様子からも、相手が何か変わった人物だとは感じられなかった。  何より、これからナオはその人と結婚して、ともに家庭を築いていかねばならないのだ。不安はあるが、怖気づいていても仕方がない。  ナオはそう思い、甘い匂いのするほうへと、テーブルを縫って歩き出した。  すると――――。 「あ……」  奥まったテーブル席に一人で座るスーツ姿の男性に、ナオの視線が引きつけられる。  こちらには気づいておらず、窓の外を眺めているが、青葉の言うとおり、ナオには彼がその人だと一目でわかった。

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