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第7話
なんだか本当に、いきなり世界が大きく開けたみたいだ。
「二人で出かけるのは大いに結構だが、くれぐれも無理は禁物だよ、佐野。ナオはオメガなのだからね」
青葉が心配そうに言う。佐野が頷いて言葉を返す。
「もちろんわかっている。オメガは守るべき存在だ。無理などさせる気はない」
「ならいいんだが。最近はほら、何かと主張をする者たちもいるじゃないか。オメガにも自由を、とかなんとか」
「自由は認められるべきだろう。むろん、『ジュピター』が認める範囲でだが」
佐野が言って、紅茶のカップを持ち上げてひと口飲む。
「意見を表明するのもいい。だが行き過ぎた主張はただの暴論だ。それは誰のためにもならない」
「まあ、おまえの立場ならそう言うだろうと思ったよ。でも……」
言いかけて、青葉が口をつぐむ。そうしてチラリと窓の外を見て、困ったふうに言う。
「おや、噂をすればだ」
「? どうした」
「その暴論の主たちだ。ナオ、聞こえるかい?」
「……?」
青葉に訊かれて窓の外を見るが、ホテルの前の幹線道路には車が行き来しているばかりだ。何か聞こえるようなことも……。
「……デモか? 今日はそんな届け出はなかったぞ?」
佐野もそう言ったので、よく耳を澄ませてみる。
するとどこからか、単調な言葉の繰り返しが聞こえてきた。
『オメガよ、立ち上がろうー』
『オメガよ、外に出ようー』
『オメガに、行動の自由をー』
「オメガ解放デモだな。やるなら届け出をと、何度も警告しているのに」
佐野が細い眉をひそめて言う。そんなデモがあるなんて初めて知った。
でも解放と言っても、オメガは別に奴隷のように抑圧されているわけではない。
アルファやベータのように知力体力に優れているなら社会に出て活躍することもできるだろうが、オメガは種としては弱く、それでありながらアルファを産むという重要な役割もある。だからこそ「ジュピター」によって婚姻相手を決められ、番のアルファに庇護されるシステムができあがったのだと、ナオは学校でそう学習した。
あの人たちは、そのことに満足していないのだろうか。
「まあまあ。実に静かなデモじゃないか、佐野。あれくらい目をつぶってやれよ」
青葉が言って、声を潜めて続ける。
「もちろん、あそこに『憂国市民の会』でも交ざっていたら問題だけどね。こんな街なかで、ヒートテロでも起こされたら困る」
「青葉……、おまえはなんだって、こんなところでそんな話をっ」
「仮定の話だよ。何が起こるかわからない世の中だ。佐野だって、ナオのプロフィールを見ただろう?」
そう言われて、佐野が黙る。
なんの話をしているのだろう。ヒートテロ、とは……?
「あの、それは一体、なんですか?」
「言葉のとおりさ。オメガのヒートを使ったテロ行為だよ」
「青葉っ」
「ナオだって知っておくほうがいい。結婚相手が決まった以上、もう大人なのだからね。表沙汰になっていないだけで、件数は増えてきていると聞いているし」
穏やかだが、確固たる口調で佐野を制して、青葉が続ける。
「ヒートテロというのはね、ナオ。こういう都会のアルファが多い人混みで、わざとオメガを発情させて群衆を混乱に陥れ、犯罪を誘発するテロ行為のことさ」
「犯罪を?」
「アルファの中には、発情フェロモン濃度があまりにも高いと、暴力衝動を誘発されたり、反社会的思考が肥大化してしまう者がいる。場合によっては反応しないはずのベータまで、煽動されてしまうことがあるんだ。それを狙っての行為だ」
そんな犯罪があるなんて知らなかった。驚きのあまり言葉を失っていると、佐野が注意深く言葉を発した。
「集団暴行や暴動、略奪なども、過去には起きています。いずれもバース安全局によって鎮静化されましたが、青葉の言うとおり件数は少しずつ増えていて、怪我人も出ている。ヒートテロはとても危険で、野蛮な行為です」
「そうだったんですか……」
五年前、街でヒートを起こして保護されたときのことを思い出して、ヒヤリとする。
あのとき、アルファたちはとても慌てふためいて、ナオに暴言を浴びせてきた者すらいた。当時はただ哀しかっただけだが、一歩間違えばそんな事態になっていたかもしれないのなら、あんな反応をされたのも頷ける。
でも、どうしてその人たちは、そんなテロ行為をするのだろうか。
「一体、何が目的なんですか? テロなんて、どうして」
「オメガの解放を訴えるためだと声明を出しているね、『憂国市民の会』は」
青葉がそう言って、苦笑する。
「そのネーミングはどうかと思うが、彼らは文字どおり憂いているのさ。『ジュピター』によって管理された人類の行く末を」
「憂いて……?」
「『ジュピター』は個人の感情というものを無視し、社会と人類の繁栄を第一に考えて、あらゆる人の人生を設計する。進学に始まり、就職も婚姻もね。ヒートテロは確かに野蛮な行為だけど、『ジュピター』の支配に抗おうと思ったら、そういう原始的なやり方で人の野性を目覚めさせるくらいしか、方法がないのかもしれないね」
「めったなことを言うな、青葉。三種の誕生と『ジュピター』による生活管理がなければ、人の野性をうんぬんする前に人類はとうに滅亡していたさ」
佐野がたしなめるように言う。それは確かにそのとおりだろう。
でも青葉の言っていることにも、ナオはいくらか同意できなくもない。ナオ自身は佐野との婚姻に抵抗感はないが、密かに青葉に恋心を抱いている。
それがナオの野性だとは言わないけれど、個人的な感情の存在そのものは、「ジュピター」も管理のしようがないわけで……。
「……と、失礼」
不意に佐野が手首につけた携帯端末からピン、とベルのような音が鳴り、彼が視線を落とした。その顔に少々険しい表情が浮かんだので、青葉と顔を見合わせると、佐野がすまなそうな顔でこちらを見つめた。
「ナオさん、申し訳ありません。職場から緊急召集がかかってしまいました。急ぎ向かわねばなりません」
「そうなんですか……?」
日曜日なのに召集だなんて、バース安全局は本当に忙しいようだ。
青葉が何か言いかける前に、佐野が彼の携帯端末を使って飲食代金の決済をし、そのまま立ち上がってテーブルのこちら側へ来る。
ナオも立ち上がると、佐野が笑みを見せて言った。
「また日を改めて会いましょう。あなたともっとたくさん話がしたいです。あなたは、いかがですか?」
「あ……、ぼ、僕も、お話がしたいです!」
「よかった。では、また近いうちに。ナオさんをよろしく頼むぞ、青葉」
「ああ、もちろんだとも。ケーキをごちそうさま、佐野」
青葉が答えると、佐野がもう一度ナオに微笑みかけてから、身を翻して去っていった。
彼の背中が遠のくにつれて、甘い匂いが徐々に遠ざかっていくのがわかる。
寂しい気持ちが胸に広がるのを感じて、ナオは震えるようなため息をついた。
(早く、会いたい。佐野さんに、また)
今日初めて出会ったのに、佐野が去っていくだけで、名残惜しく切ない気持ちになる。
こんな気持ちになったのは初めてだ。
「外が曇ってきたね。ひと雨来そうだ。少し早いけど、私たちも行こうか」
青葉に言われて、小さく頷く。
消えてしまった甘い匂いを忘れぬように、ナオは静かに息を吸い込んだ。
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