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第8話

『簡易メディカルチェック、各数値の計測を終了しました。深呼吸をしてから、落ち着いて物理現実にて意識を回復してください』 「ジュピター」がいつもの言葉を発する。  ナオは深呼吸をして目を開き、南国のコテージのインテリアホログラムをぼんやり眺めて潮騒の音を聴きながら、ほう、とため息をついた。  見慣れた部屋が、今日はなんだか少し味気ない。  この光景は本物ではないという感覚を、どうしてかいつもよりも強く感じるのだ。外出して「物理現実」に触れてきたからだろうか。 (本物の海、見に行ってみたいな)  佐野が言っていた「澄んだ綺麗な海」とは、どんな色をしているのだろう。  海水は温かいのだろうか、それとも冷たいのだろうか。  二人で海を見に行ったら、まだ嗅いだことのない本物の潮の香りと、佐野が発する甘い匂いとが混ざり合い、ナオの体を包み込むのだろうか――――。 「お疲れ様、ナオ。くたびれていないかい?」  青葉が検査処置室に入ってきたので、ナオは青葉のほうへ顔を向けた。 「大丈夫です」 「それならよかった。ヒートテロなんて物騒な話もしたし、佐野は少し堅物の気があるから、きみが気疲れしていないか心配だったんだ」 「気疲れなんて。お二人も、気兼ねなくお話なさってましたし」 「ふふ、きみにはそう見えたのか」 「え、違うんですか?」 「いや、違わないよ。お互い、もう大人だしね」  青葉が言って、困ったように続ける。 「佐野とは学生の頃、気の合う友人同士だった。ちょっとした出来事のせいで、疎遠になっていたんだ。私はもう気にしていなかったから、昔の調子で話せると思ったんだけど、彼にはまだ少しわだかまりがあるのかもしれないな」 「わだかまり、ですか」 「とはいえ、それときみの結婚は別の話だから、何も気にしなくていい」  そう言って青葉が、ベッドに腰かけて訊いてくる。 「きみから見て、佐野の印象はどうだった?」 「え、と……」  佐野の姿を頭の中に思い浮かべた途端、彼が発するあの甘い匂いが鼻腔に甦ってきた。  近づいただけで、彼がそうなのだとわかったあの瞬間。  むこうもナオが何者かわかって、言葉をかけずとも何かが通じ合った。  あの興奮を思い出しただけで、頬が紅潮するのを感じる。  青葉がナオの顔を見て、不思議そうな目をする。 「おや? 急に真っ赤になったね。もしや、佐野のことを考えたせいかい?」 「そう、みたいです」  ナオは言って、おずおずと続けた。 「佐野さんは、なんというか……、バニラみたいな、うっとりするような甘い匂いがしました」 「ほう、バニラ」 「話す声は、そう、はちみつみたいで。耳を、優しく撫でられてるみたいでした。目の前で向き合っているだけで、すごく惹きつけられて……」  話しているうちに喉が渇いてくるのを感じながら、ナオは言った。 「何も話す前から、あの人が運命の相手だってわかりました。信じられないんですけど、初めて出会ったような気がしなくて。ずっと、ああこの人なんだ、って感じてました。心がというか、体が、でしょうか。あんな体験は初めてです……!」 「体が、か。確かに『ジュピター』の計測値にも、それが出ていたね」  青葉が楽しげに言って、ナオの顔を覗き込んでくる。 「ナオのオメガ髄液活性値、今まで見たこともないような数値だったよ?」 「そうなんですか?」 「こうして見てもわかる。体が興奮しているせいなのだろう、いつもよりも涙が多く分泌されて、瞳がキラキラ輝いている。肌も艶やかで、全身がみずみずしく潤んでいるみたいだ。体温も少し上昇しているね。熱っぽくすら感じているんじゃないかな?」 「あ……、本当だ。なんだか、体の芯が熱いです。こういう感じ、久しぶりです」  風邪や疲れによる発熱とは少々違うものだと気づいて、ナオは思い当たった。  初めて発情した五年前のあのとき以来、ナオは抑制剤を服薬している。  保護施設では一律に支給されるものを一定量飲んでいただけだったから、ときどき体調に合わず、熱を出すこともあった。  だが青葉に引き取られてからは、日々更新されるナオの生体データにあわせて青葉が薬の量を調整してくれている。  そのせいでしばらく感覚を忘れていたのだが、これはナオをオメガ種たらしめている「オメガ髄液」の数値に急な変化があったときに、時折起こっていたものだ。 「恐らく佐野との対面が、きみのオメガとしての本能を揺さぶったのだろうね。その反応はとても自然なことだけれど、このまま放っておくと、夜眠れなくなってしまうかもしれないな。熱を発散させるには、『触診』するのが一番だけど……」  青葉が思案げに言って、それから何か思いついたように続ける。 「ちょうどいい。佐野の顔も見てきたことだし、今日は少し、実践的なやり方を試してみようか」 「実践的、って?」 「後ろを馴らしておくのさ。実際に佐野と抱き合うときに備えてね。準備をするから、服を脱いで待っていなさい」  そう言って青葉が検査処置室を出ていく。

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