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第82話(過去編)

いつからだっただろう。静かな家に慣れたのは。 「ただいま」 ランドセルから鍵を取り出した悠星は、玄関の扉を開ける。まだ外の方が断然明るい時間だが、家の中は薄暗く静かだった。 誰もいないリビングへ向かうと、テーブルの上には何かメッセージが書かれたメモと1000円札が置いてある。 『夜ご飯はこれで好きなものを買ってね。余ったお金はお小遣いにしていいよ お母さんより』 それを見た瞬間、頭にカッと血が上る。メモをぐしゃりと掴んで思い切り引き裂いた。何回も何回も引き裂いて、ただのゴミになる。しかしたかがメモ程度の大きさなので、それもすぐに終わってしまった。そしてもう一つのに手を伸ばしそうになって、やめた。お金は大事だ。何より夜ご飯が食べられないのはイヤだ。乱暴にそれを掴んでポケットへ押し込んだ悠星は、そのまま2階の自室へと向かった。 時折、無性にこの紙切れも破り捨てたくなる時がある。 こんなモノ程度で済ませる母親にも腹が立つし、何も干渉してこない父親にも腹が立つ。 ……いや、もうどうでもいいんだよ、あんな口先だけ、カタチだけの家族ごっこをしたい奴らなんか。 悠星の家は共働きだ。それは別にいい。今時専業主婦も多くはないらしいし、お金は大事だし。 でもアイツらは浮気相手に貢ぐため、デートの為に仕事してる。 で、ご近所さんとかにはナカヨシ夫婦を演じてる。 それに俺も巻き込まれる。 素敵なお母さんね。かっこいいお父さんね。 そんなことを何も知らない他人から言われるたび、俺の心はケガをするみたいにズキズキした。 大声で喚き散らしたくなった。 誰かに聞いてほしかった。逃げたかった。 でもそんなことする勇気も無くて、環境を変えるのが怖くて。 気付いたらこの状況が"日常"になっていた。 そんな時だ。雅樹がウチの隣に引っ越して来たのは。 「隣に越してきた安田と申します」 ある日の土曜日。小さな綿雲が一つ二つと空に浮かび、暖かな日差しが降り注ぐ午後の事だった。雅樹の両親と雅樹の3人は、菓子折りを持って家へやって来たのだ。 丁度この日は偶然にも悠星の母も家に居たので、悠星と2人で玄関で出迎えた。 最初、安田家の面々を見た時、雅樹は両親の背に隠れてよく見えなかった。 ただ、自分と同じような年の子供がいる、というのは何となく分かった。 「田口です。こちらこそよろしくお願いします。…ほら悠星も」 早く終わらないかな…と悠星が一人尾心地悪く下を向いていると、にこにこと外向きの笑みを浮かべている母に軽く背を押されて促された。ピクリと小さく肩を揺らしながらも、悠星は小さくお辞儀をする。 「よろしくおねがいします…」 この空間の中で自分の声だけが響いている感覚に襲われ、顔がぶわっと赤くなる。すぐに俯いてしまった悠星を見て、母はわざとらしくため息をついてから困ったように笑って言った。 「ごめんなさいね、この子人見知りで…。もしよければこの事仲良くしてくれないかしら」 悠星の母は雅樹に目線を合わせるように少しかがんだ。それに素直に応えるように、いつの間にか両親の間に居た雅樹がにこりと笑う。 「もちろん」 そう言った雅樹は、今度はそっと悠星の前に来る。ふと、悠星の視界の端に入ってきた足を見て顔を上げると、雅樹は優し気な笑顔を浮かべていた。 「俺、まさきって言うんだ。君の名前は?」 「……悠星…」 「悠星ね、呼び捨てしていい?」 「いいけど…」 「俺の事も雅樹って呼んでいいから」 「……」 訝し気に雅樹の事を見ると、にこにこと笑ったままだった。その顔が何だか胡散臭くて、ぐいぐい来る感じはあまり好きじゃなくて。 こんな感じで雅樹との初対面は終えたけれど、早く帰ってくれないかなと思うのだった。

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