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●近くて遠い。
ここ最近、兄がよく家にいる。父が消防団の集まりだとかで留守がちだからだ。知玄はレポートを書いていた手を止めて、ヘッドホンを外し、首に掛けた。茶の間の方から微かにテレビの音声と母の笑い声が聴こえてくる他は静かだ。向かいの部屋には兄がいるはず。ドアの開閉音が聴こえた覚えがないから、きっと兄はそこにいる。
ドア二枚を隔てているだけで遠い気がしてしまうが、ほんの数メートルの距離でしかない。唐突にそんなことを思う。
町中 に見られる、まだ建て始まったばかりで基礎の部分が剥き出しになっている家のことを思った。あそこがリビングで、あっちはキッチンで、その狭いスペースはトイレなんだろうなどと、通りすがりに見て思い、そして驚いてしまう。柱も壁も天井もない家の、意外なほどの狭さたるや、と。
それを思えばやはり、今、自分の部屋で学習机に向かっている知玄と、向かいの部屋でごろ寝でもしているだろう兄との距離なんか、ごくごく僅か。これが公園などの広い地面に描いた家の間取りの中ならば、ほんの数歩、ぴょんぴょんと歩いただけで、兄の目の前に立てるはずだ。
今頃、何してるんだろう? だがそんなこと、毎日のように兄が出歩いていた時期ほど考えなかった。
「どうせ寝てるんだろうけど……」
高校時代なんか、兄は一月くらいは平気で家に帰らなかった。兄のことは回り回って他人の口から耳に入って来るものだった。友達や彼女の家を泊まり歩いているとのことだった。
たまに、着替えを取りに帰宅した兄とかち合うことがあった。そんな時は大体、兄は茶の間で大きなスポーツバッグを枕にして眠っていた。近付くとすぐに目を開けて、剣呑な目付きで見上げてくる、隙のない人だった。
知玄は机の抽斗から一枚の写真を取り出した。先日、写真の整理を母に頼まれた時にくすねてきた、昔の兄の写真だ。
いつだったか、兄は珍しく向かいの部屋のドアを全開にしたまま、ベッドに眠っていたことがあった。夏服姿で、無防備に手足を投げ出し、こんこんと眠っていた。枕には長く伸びた黒髪が扇状に広がっていた。まだ家業に就く前で細身だったのもあり、まるで眠り姫のように見えた。
知玄が忍び寄っても兄は目覚めない。目の下には薄い隈があった。寝返りを打った拍子に着崩したシャツの襟から首筋が顕になり、そこに赤い痣があるのを知玄は見つけてしまった。これを着けたのは男ではないかと知玄が直感した時、漸く兄は薄く目を開けたが、知玄は慌てて逃げ出した。「近寄るな」と痣に威嚇されたような気がしたからだ。
喉が乾いたので、知玄は何か飲もうと席を立った。ドアを開けると同時に向かいのドアも開いた。
「何だよ」
目が合うなり言った兄の首筋には、今はどこかの誰かではなく知玄の刻んだ印がある。
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