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●鬼の霍乱。

 存在自体が奇跡のような兄が、屋台上で更に奇跡を起こしていた。 「かっこいい……」  |桴《ばち》を振り上げ、タタラを踏むような動きでゆっくりと振り下ろす。太鼓の四人の腕の振りと足並みが、綺麗に揃っている。トン、トン、と打っては観衆にアピールするよう身を乗り出し、桴でこちらを指すのだが、差し出された桴は、指先で水平方向に滑らかに回転した。  お囃子は、風雅な笛の調べに(かね)と太鼓の鷹揚(おうよう)なリズムが乗って、ゆったりと流れる川面のような印象を醸し出している。 「やっぱ本番は違うなぁー」  茜が感嘆の声を上げた。いつの間にいたのか、知玄はお囃子に夢中で茜の気配に気付かなかった。茜は太鼓に合わせて唄う。 「とんとことん、とことことことん、とんとん、よーおっ」  兄がこちらを見ている。  上と下とでこれほど明暗の差があると、屋台の上から知玄のいる場所は見えそうにないが、知玄には兄の視線は知玄を見据え、挑発しているようにさえ見えた。  やがて屋台は方向転換し、元来た道を神社まで戻っていった。    祭りが終わってしばらくはテスト地獄。一方兄は、今度は商店街のふるさと祭りに強制参加させられた。  テスト期間が明ける頃に兄も祭りから解放され、久し振りの逢瀬を堪能するはずが「なんか気分がのらない」と拒否されてしまい、知玄はこの週末も寂しく独り寝をした。 「三十八度!?」  月曜の朝、体温計の数値に母はすっとんきょうな声を上げた。 「鬼の霍乱ね!」 「誰が鬼だ……」  兄はゲホゴホと咳き込んだ。 「喉が痛ぇ。煙で燻せば治るかな」 「ダメですよ、風邪の時に煙草なんか。ちゃんと横になって安静にしないと」  知玄が諭すそばから、母は、 「せめて午前中の配達だけでも行けない?」  などと言い出す。 「運転して行って帰って来るだけだもん、工場作業よりは簡単でしょ」  運転をしたことのない人は恐ろしいことを言う。こんな体調では事故を起こしかねない。  兄はベッドから起き上がった。しかし足元が覚束なく、知玄の方に倒れ込んでくる。 「ほら無理ですってば」 「でもお父さんになんて言えばいいの?」 「じゃあ僕がお父さんにお願いしてきます!」  母が止めるのも聞かずに、知玄は一階に駆け降りた。  案の定、父は「ダメだ」の一点張りだった。 「お兄さんが死んでしまってもいいんですか」 「風邪なんかじゃ死なねえよ」  電話が鳴った。父は無言で受話器を上げ、しばらくただ相手の話を聴いていたが、 「そんなら休ませてやらぁ」  とぶっきらぼうに言って受話器を置き、知玄を見上げた。 「お前に自営の厳しさは解るまい」  そう言われてはぐうの音も出ない。  二階に戻り兄の部屋を覗くと、兄はベッドに横になっていた。パチンと音を立てて携帯を折り畳み、携帯を包み込んだ両手を額に押し当て、兄はうつらうつらと微睡み始めた。

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